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活動のコンセプトを変えていきます^^
突然ですが、
活動のコンセプトを
広げていこうと思っています^^
“宗教肯定派カウンセラー”
としての肩書はそのままに、
もっとソマティック(身体性)の
可能性を深める活動をメインに
していこうと考えています。
その活動において、
どんな肩書が生まれるのかは
現在模索中です^^
一番のきっかけは、
あるクライアントさんの言葉でした。
「最初は、家の宗教のことで悩みがありました。季世さんと同じで自分と向き合うということがまったくわからなくて問い合わせをしたのがきっかけでした。
でも身体をとおして自分を知る、ということを知って本当に生き方が変わってきました。宗教という問題とのかかわり方だけでなくて、なんか人生全体のことです。
ソマティックという言葉も考え方も初めて聞きましたが、これを宗教のことで悩んでいる人だけを対象にされていくのはもったいないとなんとなく思います」
これは前々から感じていたことでした。
宗教のことで悩んでいる人だけでなく、
すべての人が身体をもっているのだから、
“すべての人”を対象にしていっても
いいよなぁ、と。
でも、
私は“宗教性”という分野で
活動していくことに
ひとつの自負がありました。
自身の経験がないお悩みには
寄り添う力が及ばないかもしれないけれど、
“宗教”に関することであれば自信をもって
対応できると感じていたし、
そこに対するこだわりもありました。
明確な専門性を打ち出せる、
という打算的な気持ちもありました。
とっても
思考的ですよね(笑)
後述していきますが、
ソマティック(身体性)とは、
“なにが起こってくるかわからない”
というところにこそ、
その可能性が潜んでいます。
期待や執着なしに進んでいくからこそ、
変化があるんです。
そのさきで起こってくることは
本当に人それぞれです。
だからこそ、
“自分らしさ”への近道なんですね。
けれど、
それを看板にして活動していくには
〇〇な人が〇〇になれますよ、
というベネフィットを示しにくく、
個人事業という観点ではとても
不利な方向転換でした。
でもやっぱり、
その方向転換をしていきたい、
というのは私の深いところからの望みでした。
これまで、
カウンセラーとしての活動を
前提としていたので、
『ソマティック心理学』をメインに
トラウマケアも含めて学んでいました。
学びを深めていくなかで、
やっぱりそれが《心理学》である、
というところが引っかかっていました。
その違和感をすこしずつ紐解いていくと、
私が深め、広めていきたいことは、
『ソマティック心理学』という
アプローチのすごさを駆使した
カウンセリングではなく、
もっともっと根源的な、
ソマティック(身体性)な探究、
というところでした。
もちろん、
『ソマティック心理学』は
別名、身体性心理学と呼ばれますが、
従来の分析的で傾聴的な心理学と比べても
とてもパワフルなものです。
これからも、
“宗教肯定派カウンセラー”
としてカウンセリングのことも
続けていきますので、
宗教的なお悩みをお持ちの方は
お気軽にお問合せくださいね^^
宗教性とソマティック(身体性)
“宗教肯定派カウンセラー”
として出発し、ソマティック(身体性)を
もっと深めていきたいという思いに
辿りついたことは自然な流れであったように
思います。
私はこれまで、
とても尊敬している人に言われた
「自分を売っていくってさ…」
という何気ない一言を大切にして
この活動を続けてきました。
(それは別に、
なにかノウハウを教えてくれようとした
とかそういうことではなく、
尊敬する人の一言だから、
それがどれだけさりげないものでも
心に残っているんですよね。
私も、
誰かにとって、
そんな影響を与えられるような人に
なることがひとつの目標です^^)
そして、
その一言を突きつめて、
私のなかから湧いてくることを
湧いてくるまま表現することに
しました。
ここしばらくの記事で…
人体の仕組みのこと、
身体の細胞のこと、
世界の在りかたのこと、
時代の移り変わりのこと、
ときには宇宙のこと、
に触れて書いてきました。
そこから見えてくる、
<導く力と引き戻す力>
<自立と依存>
<男性性と女性性>
<被害者意識と当事者意識>
のような対極の質について、
湧いてくるまま書き続けました。
“自分らしく生きる”
を発信するからには、
私自身がまずはそこを目指さなければ、
という勝手な気負いも生まれました(笑)
そしたら、
ブログのコンセプトを
大きく外れた流れになっていってしまいました(笑)
でもこれが必然であったと感じます。
仏教でもキリスト教でもイスラム教でも、
世界中のあらゆる宗教が、
やはり“身体性”を重んじています。
仏教の場合は分かりやすいですよね。
座禅や瞑想、滝行、山伏の修行など、
“身体性”を欠かすことはできません。
「精神」と「身体」は別もので、
「身体」は「精神」に劣るもの、
「精神」が「身体」を支配するもの、という
心身二元論の考え方が主流な
キリスト教ですら“身体性”抜きに
その信仰心は育まれなかったと思います。
“身体性”の大切な要素が
『感情』や『感覚』であるからです。
なにかを感じて、なにかを受けとるから、
信仰心が生まれるんですよね。
あらゆる宗教が“身体性”を重んじる理由。
それは
“身体性”というものが『新しい視点』を
もたらしてくれるからだと私は思います。
これまでの、
一見ばらばらと思われる私の記事たちも
『新しい視点』によってもたらされたもので実はつながっています。
このブログの在りようから、
“ソマティック(身体性)”を表現したい、
という私の試みは一旦ひとつの形になったと
勝手に満足しています。
勝手に気負って、
勝手に満足する。
これも“自分らしく生きる”ために
とっても大切なことだなぁと思います。(笑)
“自分らしさ”なんて自己満でいいのかもしれないですよね^^
私自身が、
「宗教中心の人生」から
「自分中心の人生」に
変えていきたいと思ったとき、
当時は自然な流れでしていたことが
実はその方法が“ソマティック(身体性)”
に基づいたものだったということが
あとになってわかりました。
どうしてその流れが生まれたのか?
今になってすこし見えてきたものがあります。
ソマティック(身体性)に
自分と向き合ってみるときの体感が、
神仏に対する“信仰心”の体感と
とても似ていました。
ソマティック(身体性)とは、
つまり“探究”であるといえます。
“こんなふうに感じる”
“もしかしたら、
~ということがあるのかもしれない”
“よし、ちょっとやってみよう”
そこには保証もエビデンスも、
なにもありません。
ただその純粋な好奇心や素直な気持ちの
ままに深めていくだけです。
探究には“期待”がないんです。
こうすれば〇〇になるから、
ってしているものでもないんですね。
ソマティック(身体性)をメソッド的に
やり方にすることもできるけど、
どこまでいっても“探究”です。
でも不思議ですよね。
だからでしょうか…変わっていくんですね、
いろんなことが、良い方向に^^
それは、
この世の原理原則に逆らうような、
抵抗(期待や執着)が生まれないから
ではないかと考えています。
そんなことを感じながら、
この世の原理原則を使いこなす人を見ると、
素直な探究家なんだなぁという気がしてきます。
期待や執着を上回る、
純粋な好奇心のままに
探究を深めているうちに、
運に恵まれていくようになったような^^
広めたいのは“メソッド”ではなく“探究”の楽しみ
メソッド化することが、
期待と執着を生みだし、
それがあらぬ方向へいってしまう
ということがわかっていても、
それでもなんとか、
この“ソマティック(身体性)”について
多くの人に知ってもらえたら!
という気持ちを持っています。
それは、
すべての人が必ず与えられている
“身体”がもつ『ちから』と『知性』、
そこから生まれる自己調律のちからを信じて
委ねるという経験を味わってもらえたらという
願いがあるからです。
そしてなにより
“探究”していくことの
楽しさを共有していきたい。
一人ひとりが
自分だけのメソッドを見つけて欲しい、
という願いがあります。
——–
私が自分と向き合ってみようと
思うきっかけとなった
漢方を処方してくれるお医者さんの言葉。
「僕があなたの身体の細胞だったら
嫌になる。すぐに我慢するし、
褒められても受け取らないし、
もうこの人のために頑張っても
甲斐がないから働くのやめようと思うよ。」
これは、
もらった言葉そのままの表現です。
まるで
細胞ひとつひとつに意志があり、
一人の人間のように
機嫌も損ねてしまうんだよ、
と言わんばかりのこの表現は、
私にとって衝撃で、
この言葉にそのまま応えるような形で
自分と向き合うことをはじめました。
まさか先生も、
私が言葉をそのまま真に受けて、
身体の細胞ひとつひとつを
意識して過ごしていくなんて
予想だにしていなかったでしょうが、
気づけばそうして過ごすことが
【自己信頼力】
(自分とのパ―トナーシップ)
を高めることにつながっていました。
たとえば、
私だけのメソッドにはこんなものがあります。
なにかに挑戦したいと思うとき、
“根拠のない自信”が一番強い、
というのは、なんとなくわかりますよね。
でも実際には、
その“根拠なき自信”を身につけるのが
難しいもので悩ましいところです。
そこで私は、
“細胞たちへの信頼”を
徹底してみることにしました。
これは“探究”なので、
効果があるのかどうかはどうでもいいんです(笑)
嬉しい!と思うできごとがあれば、
まずは『嬉しい!』を存分に味わう、
そして必ず、
『嬉しいという気持ちを味あわせてくれて
ありがとうね♡♡』
という気持ちを細胞たちにも伝えます。
嬉しい!
という気持ちだって、
身体がその感覚を感じとって
伝えてくれなければ、
私がそれを認識できることもありません。
だから感謝を伝えてみる。
これってべつにおかしいことでは
ないですよね。
なんとなく奇妙ですが(笑)
一人のときは言葉にするし、
人前であれば心のなかで意識します。
これが結果として、
私には効果的でした。
ひとつひとつの細胞に
意志があるのか、
ということについては
また別に記事を書きたいと
思っていますが、
私は”ある”と感じています。
細胞たちを信頼する、
ということは
結局のところ、
自分のことを信頼する、
ということにつながっていました。
こういう資格をもっているから、
こういう実績を残しているから、
こんな肩書をもっているから。
そういう根拠のある自信とは
またちがう“根拠なき自信”。
なんの保証もない。
でもこのまま進んでいこうと思える。
よくよく思考を巡らせれば
不安な要素もたくさんある。
だけど一歩も引こうという気持ちにならない。
この気持ちのまま今日を過ごすことができるなら、明日死んでしまってもきっと後悔しない。
そんな感覚です。
これは、
自分の同志が、
細胞たちの数だけ存在している、
ということを私自身が信じきっていることで
生まれる感覚かと思います。
これは私だけのメソッドです。
私にとっては、
“根拠なき自信”を身につけるのに
ぴったりな方法でした。
そして、
私がお伝えして広めたいのは、
この方法そのものではありません。
こうした自分だけのメソッドが
見つかるような“探究”の楽しみを
味わうことが広まっていけば嬉しいです。
“探究”を前提とすると、
日々起こってくるさまざまな出来事は
探究のタネでしかなくなっていきます。
だから自然と、
被害者意識から当事者意識に
変わっていくので、
それまでと比べてぐんと楽になります。
誰かのせいにしたり、
人生はアンコントロールだと
嘆いたりする必要もなくなっていきます。
ときには、
あえてその波に呑まれてみようと
嘆きの日々を送ってみますが、
それにも“飽きてくる”感覚が
おとずれます。
表現がわかりやすいので
メソッドと言っていますが、
本質的なところでは、
『新しい視点=気づき』を
たくさん経験できる人が増えたら…
と思っています^^
ソマティック(身体性)は新しい視点(気づき)をもたらしてくれる
ソマティック(身体性)をひと言で
定義するならこんな感じの表現になります。
自分の思考(左脳)というよりは、
身体(右脳)の感覚と行動を通して
自分と向き合ってみたり、
世界を眺めてみたりすること。
《人体観》について書いた記事でも
すこし触れていたことですが、
ソマティック(身体性)は
『新しい視点』をもたらしてくれます。
『新しい視点』とは、
つまり“気づき”のことです。
日々いろんなことを経験するなかで、
「あぁそういうことだったのか…」
と深く納得でき、腑に落ちる感覚を
得ることがありますよね。
この“腑に落ちる”という
体感をともなった感覚を“気づき”
といいます。
この“気づき”が増えていくと、
どうなるか?
【自己受容】と【自己肯定】のサイクルが
どんどん巡りだします。
“自分と向き合うことが怖いことではない”
と体感から理解できるようになると、
“どんな自分も受けいれてしまった方が早い”
と、思考も体感もシンプルになっていきます。
自分なかにあるポジティブもネガティブも
オールOKをだしていけるようになります。
私はこの心の筋肉のようなものを
“内包するしなやかさ”と呼んでいます。
“内包するしなやかさ”は、
我慢や忍耐のことではありません。
『自律』がもたらす力づよさです。
とても柔らかく、それでいて芯があります。
限界がやってきて、
あるとき突然ポキンと折れてしまう…
ということがありません。
さらに厳密にいうと、
突然ポキンと折れてしまうことでさえ
もうOKになっていくんです(笑)
そうなってくると、
目の前に広がるこの世界の見え方も
変わってくるようになります^^
“気づき”が“自分らしさ”につながっていく理由
ソマティック(身体性)が
もたらしてくれる“気づき”
が“自分らしさ”につながるのは
どうしてでしょうか?
それは、
身体感覚が伝えてくれるものは
Spirit(本質的な自分)の本音だからです。
Spirit(本質的な自分)を言い換えると
“魂”ともいえるかもしれません。
宗教的な概念が近くにあると
“魂”という表現も慣れたものですが、
そうでないと聞き慣れないものかも
しれないですね。
私は、霊的なものが視えたり聴こえたり
といった能力があるタイプではありません。
でも、
“魂”というものは間違いなく存在していると思っています。
今この瞬間に
“頭”が反応しているのか
“魂”が反応しているのか、
はなんとなくわかります。
ただ単に“気づき”
という言葉を聞くと、
なんだか物足りない気持ちに
なりませんか?
それで目の前で起こることや
人生が変わってくるなんて
ちょっと信じられない、
というような気もしますよね。
それは、
“頭”つまり思考的な“気づき”
のことをイメージしているから
かもしれません。
思考的な“気づき”とは
たとえば、
「あ、あの人なにか困ってるな」
のような、
動詞的な「気づく」のことですね。
これは実は“気づき”とは少しちがいます。
“魂”つまり身体的な“気づき”こそが
人生を変えていきます。
身体的な“気づき”が起こり、
腑に落ちた感覚があった時点で
それは身体感覚がもつ『自己調律』
の鍋に材料を放り込んだようなもの
なんです^^
そして
身体感覚の『自己調律』によって
ほっとく鍋のように、
“勝手に自動的に”
いい具合にしてくれるんです。
ここがとっても表現することが
むずかしいところで、
実際にどんなことが起こってくるのかは
人によって、パターンによって、
シーンによって異なります。
でも、
意識をそこに向けていれば
自分で受けとることができます^^
自分自身の体感が変わって、
“問題”を“問題”と感じなくなったり、
現実が実際に変わってくる、
モノや情報との出会いがもたらされる、
人とのご縁がもたらされる・・・
大切なのは、
“期待”や“執着”を上回る
純粋な好奇心をもってみることです。
こちらの記事で
すこしお話していましたが、
思考で解決しようとすると
コントロールになって、
がっつきモードになってしまう。
身体感覚で解決しようとすると
自己調律にゆだねることになって、
受けとりモードになっていきます。
たとえば、
目の前に、
ふんわりとした“わたがし”があると
想像してみてください。
それを、
がっつきモードで
手でつかみにいくと
きっと全体のうちのちょっとだけ
がペシャッとなって手に残りますよね。
でも、
受けとりモードで
両手を差し出してみると、
ふんわりとした本来の形のままで
100%の状態で手にはいりますよね。
“思考”でいくか、
“身体感覚”でいくかで、
もたらされるものはここまでちがいます。
いきなり自己調律のちからを
味わってみようとすると、
思考が邪魔をしてくるのが
よくわかります。
ソマティック(身体性)に
自分と向き合うとき、
“だいたいこんな感じ”
という軽やかな態度がとても大切です。
思考がうごめいているとき、
“だいたいこんな感じ”
という軽いテイストが許せない感覚がでてきます。
《答え》じゃないからですね。
これまでの人生で、
思考フル稼働で《答え》や《結果》を
出すことを求め続けられてきました。
だからその感覚が生まれるのは
当然のことなんですね。
だからまずは、
思考を鎮めてあげることが
大切になります^^
“思考を鎮めていくこと”と
“身体感覚を養うこと”を
同時に進めていけるような
具合的な方法をこれからの記事でも
ご紹介していきますね。
そこを土台に、
“探究”を深めて、
楽しんでいかれる方が
増えていくことを願っています。
そして、もしも
“探究してみよう”
なんて思えないときがあれば。
そんなときは、
「不安パーツさん」が
すこし顔をだしてくれて
いるのかもしれません。
それでも全然大丈夫です^^
それにもきっと意味があります。
「不安パーツさん」への
寄り添い方も記事にしてみたいと
思います。
————
●【概念編】
⇒思考(左脳)と身体感覚(右脳)のちがい①~⑤・<最終章>
※<最終章>までの連続シリーズです。
●【本質編】
⇒ソマティック(身体性)な探究~本質編~
●このブログでは、
【パーツ心理学】にもとづいて、
身体の細胞や感情に対して
“擬人的”な表現を多く用いています。
自分と向き合ったり、
感情と距離をおくことを優しく
手伝ってくれる神経生物学的な考え方です^^