「擬神化」されたエネルギー

屋久島から帰り、
早朝のバイトに精を出す日々のなか
京都の東寺で開催されていた
世界遺産 東寺 特別展示会
2023草場一壽 陶彩画展

を訪れる機会がありました。

草場一壽さんは、
佐賀県出身の陶彩画家。
これまでの有田焼の常識を覆し、
絵入れと窯入れを繰り返すことで
陶器に色彩表現を施す「陶彩画」の技法を確立。

その作品は世代を問わず今、大変な人気があります。

美術関係に疎い私でも、
草場さんの作品展には行きたいな~
と思いながら毎年チャンスを逃し、
今回初めて展示会に行くことができました^^

振り返れば、
今だからこそ行くべきだったのだと思います。

***************

草場さんの作品は、
通底して「いのちの輝き」
テーマに描かれています。

公式サイトの作品一覧を
少しのぞくだけで、
「龍」「神話」「菩薩」など
神仏や神獣をモチーフとして
描かれる繊細な美しさにはっと息をのんでしまいます。

草場一壽公式サイト

その作品の素晴らしさは文句のつけようなど
もちろんありません。

しかしながら、
この日に展示会で感じたことは想定外のものでした。

***************

展示会場にところ狭しと展開される
作品群に感嘆しながらも、
私はずっとなにかに引っかかっていました。

しばらくはその正体に気づかずにいました。

そして、
鑑賞も2巡目となったとき
その正体がはっきりとわかりました。

それは、
「わかりやすすぎる」という感覚でした。

転載ははばかれるので
テキストになってしまいますが、
たとえば
『黄金の龍』という黄金色に艶めく龍が
描かれた作品があります。

そして、
その作品の傍らには
こんな「詩」が添えられます。

黄金の龍

おのがいのちの
きらめきを 解き放つとき
疑心をぬぐい
いつわりの我が身に 挑むとき
天より来たる 自在なるもの

草場一壽公式サイト

こんなふうに、
その作品に描かれたエネルギーが
いかなるものかが、
添えられた「詩」によって
わかりすく言語化されています。


草場さんの作品が、
これだけ多くの人に認知され愛される秘訣は
その美しさはもちろん「わかりやすさ」にもあるのだと感じました。

「龍」「神話」「菩薩」などの
神仏や神獣をモチーフに、
この世に存在するあらゆるエネルギー
とても美しく「擬神化」して表現されています。

さらには
「詩」を駆使した言語化までなされています。

草場さんは
なぜ敢えて 「わかりやすい」表現をされているんだろう?

それとも、
結果「わかりやすい」表現になっているのかな?

そんな問いが生まれました。


「宗教」以前の宗教


私の一番最初の肩書は、
「宗教肯定派カウンセラー」でした。

(※ここでいう「宗教」は、
カルト宗教ではない健全な宗教を前提としています。)

その対象となるクライアントさんは
「宗教」に恩恵を感じながら
「宗教」にしがらみを感じている方々でした。

このサイトには、
その頃の記事もすべて残しているのですが
私自身が信仰のある家庭に生まれた3代目であり、
そのことが「自分の人生を生きられない」理由になっていました。

厳密にいうと言い訳なのですが、
流行りの言葉でいうと
「生きづらさ」のようなものでした。

前回の記事で少し触れていた通り、
私は「個人ビジネス」のセオリーに則って
ターゲットとなる方に向けて、
その「問題点」と得られる「ベネフィット」を明確に提示しました。

自身の経験から、
家庭の宗教にまつわる悩みについては
ネットでの検索はしづらい傾向にあると
踏んでいたので、
街の公共掲示板にもチラシを貼っていました。

地元の街の掲示板は、
月末になると掲示物が一斉に撤去され
月初からまた貼ったもん勝ちで掲示物が増える仕組みです。

いろんな宗教の勧誘めいた広告もある中、
宗教にお悩みの方向けのチラシを貼るという、シュールというかなかなか骨太なことをしていたものです^^;


けれど、
公共掲示板にも需要があるようで
そこからお問い合わせがはいるようになりました。

「宗教」についての悩みは
その「中」にも「外」にも相談できない、
という特徴があり、
その狭間にポジションしていた私を
とても信頼し、心を開いて話してくださいました。

そしてクライアントさんが
また別の方をご紹介くださり
数珠つなぎにご縁がつながっていきました。

当時のペルソナ設定によるものだったと思うのですが、
実際のクライアントさんたちは
お会いした当初は大変深く悩んでおられるのですが、精神面での混迷はそこまで深刻でない方が多い印象でした。

クライアントさんと関わるうち、
だんだんと「カウンセラー」が
自分の活動の本丸でないことに気づき、
割と短い期間でその肩書を卒業しました。


自らターゲットとなる方に向けて、
その「問題点」と得られる「ベネフィット」
を提示しておきながら、
それで実際にお客様の反応があったことにとても戸惑いました。

それは「メンタルブロック」のような、
受けとることへの抵抗感などではなく、
ふつふつと湧きあがる疑問からの戸惑いでした。

大なり小なりちがいはあれど、
「ビジネス」の根幹は「問題解決」だという事実に今さらながら直面していました。

提供者が「問題」を提示することで、
ユーザーがそれにはっとする。

提供者の商品によって「問題」が解決する。

それをサスティナブルに続けていくことは、果たして何を生みだすんだろうか。

むしろもう少し俯瞰して観たら、
破綻の方向に向かっているとも言えない?

ふとそんなことが頭をよぎりました。

(これはあくまでも
「線」でみたときの観点であり、
「点」でみれば提供者もユーザーもHAPPY。
現行のなにかを否定するものではありません。)

そして思い切って、
心の向く方向へ活動内容を変えていきました。

「心理療法」以前の「身体性」に重きを置くことにしたのです。

そして傍らで
資本主義社会的な在り方についての探究も
進めていくことになります。

そしてもうひとつ、
大事な方向転換の理由がありました。

「宗教」を肯定しつつも、
「宗教」にしがらみを感じている人たちは、
「宗教」の名のもとに正当化されてしまった
政治的・集団社会性によるルールや認知の
絡まりにもがいています。

たとえば
「同じ宗教の人同士で結婚したほうがいい」
というのは、非常に合理的な話です。

ものごとの考え方、生活習慣など考慮すれば
すんなりと“ そりゃそうだ ”と思えます。

けれど、
「宗教」において人間が集まることで
「合理的な事実」が「教義化」し、
葛藤を生んでしまうことがあるのです。

「同じ宗教の人同士で結婚したほうがいい」
という単なる合理的な事実が、
「同じ宗教の人と結婚しなければいけない」
となり、次第に
「ここでもらう縁談が最上のご縁だ」
「自分で選んだ人なんてとんでもない」
と飛躍していきます。

これは教義でもなんでもなく、
「政治的・集団社会性によるルールや認知」
です。

ところが組織の「中」では、
それが「教義」のようになってしまっています。

これは「宗教」以外の場でも
起こりうることですが、
「宗教」という特性上、
当人にとってのしがらみ具合は
「罪悪感」との葛藤を含めハードになりがちです。

そこから一旦「外」にでて、
「政治的・集団社会性によるルールや認知」
の絡まりをほどいていきます。

ここがとても興味深いところで、
「宗教」を肯定しつつも、
「宗教」にしがらみを感じている人たちは、
その絡まりさえほどいてしまえば
大変に生きやすい人たちだったのです。

私自身の経験からも確信しているのですが、
生まれた家庭に「宗教」のある人は、
良くも悪くも「学校」や「社会」の言うことをあまり聞いていません。

それはなにも
反社会的とかそういう意味合いではなく
「学校」や「社会」で教えられることよりも
「宗教」で教えられることへの比重が大きいため、よそで教えられることをあまり真に受けない傾向にあるだけです。

しかし、
その比重の大きさゆえに
「宗教」に関して葛藤を抱えると、
そのぶん罪悪感は増してしまいます。

「宗教」のしがらみに悩んでいるときは、
世間一般がとてもまともで開放的な場所に思えます。

ところが、一旦「外」にでて、
「政治的・集団社会性によるルールや認知」
の絡まりをほどいてみると、

まともに見えていた
「学校」や「社会」にこそ、
洗脳めいた刷り込みが潜んでいることに気づきます。

むしろ世間一般の刷り込みのほうが
ちょっと巧妙であることにも気づきます。

「宗教」の「中」と「外」の狭間で
バランスを取り戻したクライアントさんは、
「学校」や「社会」の刷り込みの影響を
あまり受けずに済んでいたという恩恵に気づいていきます。

そして、
「宗教」にも
「社会」にも依らない自分の道へ、
比較的すんなりと進んでいかれます。

「宗教」に恩恵としがらみを感じる人は、
「目に見えないものを信じる」ことに
抵抗がない
というのも、生きやすさの理由のひとつかもしれません。

***************

この活動から得た最大の学びは
「宗教」以前の宗教に、
きっとこれから私たちの意識は自然と回帰していくんだ
という直感を得られたことです。

それはイメージにすると、こんな感じです。

「宗教」

「宗教」以前の宗教


「宗教」が形を有するものだとすれば、
「宗教」以前の宗教は、形となる前の
エネルギーそのもののようなイメージです。

自然と回帰していくならば、
私がそこをアシストする必要などないと思いました。

コロナの収束とともに
「宗教」の闇が顕在化し
自然に崩壊していくような現実を観たとき、
あのときの直感を確信しました。

また、
「宗教」の闇が話題となるとき、
統一教会をはじめとした
「新興宗教」が取り沙汰されます。

「伝統宗教」は
「新興宗教」とはちがうんだよ、
と、そのコントラストをもって「伝統」を肯定しがちです。

けれど、
冷静に眺めていると
「伝統」も十分な政治的・集団社会性を
孕んでいるように観えるのです。

神社仏閣のマーケティングってなかなかすごいです。

決して、
「伝統」と「新興」どちらがいい、
と言いたいわけではなく、
これらを引っくるめた「宗教」以前の宗教に
時代は回帰していくのではないかなと思うのです。

「宗教」についての探究から、
『そろそろ源に還ろうよ』
そんな声が聴こえてきます。


「わかりやすい」ものでなくても

さて、
草場さんの展示会に話は戻ります。

展示会全体を通して
私が感じていたのは、
「擬神化」された神からの卒業でした。

宇宙がうまれた瞬間の、 本来のエネルギー。

いつだって
私たちを取り巻く粒子のなかに
たしかに練りこまれ存在しているさまざまなエネルギー。

それが「擬神化」された
「わかりやすい」ものでなくても
ちゃんと認識できる?

草場さんの表現は 、
逆行する手法を採りながら
それを促してくれているように、
私には感じられました。

日常のあらゆる時空に「神」は宿っている。
それをどう感じていくか。

この展示会での探究もやはり、
【Cell ラボ】のコンセプトに繋がっています。

その「固定化」された
「知識」や「情報」に根差して
ものごとを考えることもときには必要です。

その姿勢が「有」からものを考える、だとすれば
この【Cell ラボ】では
「無」からものを考える姿勢を大切にしたいと思っています。

【Cell ラボ】とは?

「固定化」された(「擬神化」された)
「神」ではなく、
「本来のエネルギー」を観ることができるか?

ーめちゃくちゃ余談ですが、
私の本名は「満世」と書きます。

産まれたときに開口一番
『世は満足じゃ』と言っていた、
など諸説ありますが(笑)

いずれにしても、
「世」がなにで「満ちているのか」、
を観ようとすることが
この人生において大切にしたい在り方なのだと
あらためて思います。

出来事や関係性から
「神話」が創られたように、
日々の出来事や関係性から
「それ」を感じられるか。

神社やお寺
パワースポットにだけ、
特別なものがあるわけじゃない。

「日常2.0」へのアップデートはこのあたりも
大事にしていきたいみたいです。

「〇〇」以前の〇〇


【Cell ラボ】の声を聴きながら
誘われる探究にはこんなものがあります。

「ビジネス」以前のビジネス
「科学」以前の科学
「アート」以前のアート
「身体性心理療法」以前の身体性…

どうやら私たちは、
「なにか」以前の「なにか」にもどっていく流れにいるのかもしれません。

【Cellラボ】では
「身体感覚(女性性)」を開き、
「健全な思考(男性性)」を生かすことを大切にしています。

日常をとりまき満たしている、
宇宙がうまれた瞬間の本来のエネルギー。

「擬神化」された神ではなく、
「身体」や「自然」とつながることで、
それをちゃんと「観る」ことを大事にしたい。

だからまずは、
私がそれを「体現」していきたいと思います。

引き続き、
【Cellラボ】の声を聴き続けながら…^^

(本当、なにしてるんでしょう 笑)