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時代の変化の波にのる|『支配』から『共存』へ
2代目以降の信者さんが
宗教による生きづらさを解消して
「自分のための人生」を生きられるように
なることのふたつめのメリットはなんでしょう?
ふたつめは、
時代の変化の波にうまくのっていける、
ということです。
コロナ禍によってもたらされた
さまざまな変化は、
【支配する・支配される】時代から
【共存・調和する】時代への
足がかりとなっているようです。
“共存する”、“調和する”
というと聞こえがいいですが、
それは決して、言葉通りの
安穏で平和なだけのものではないように
感じます。
“共存・調和していく”
とは、皆がみんな同じ方向を目指して
いくことではありません。
むしろ
一人ひとりが自分で考えることを
求められるからこそ、
個々が目指す方向がてんでばらばらに
なっていく。
そのときに、
お互いの世界観や考えを
どれだけ表現し、
どれだけ認められるのか、
その度量の大きさが試されていきます。
オンラインサロンのような
一見閉鎖的なコミュニティの広まりも
この時代の変化をわかりやすく表して
いるようです。
最近では、
サロン内限定の通貨を流通させて、
ものやサービスを購入するときは
その通貨のみを使用する、
という試みをしているコミュニティも
あるのだそうです。
もうなんでもありですよね!(笑)
そう、
なんでもありなんです。
そのコニュニティを
自分が選ぶのかどうか、
ただそれだけです。
自分の意にそぐわない
コミュニティにわざわざ介入して
「これは正しくない」
と主張してしまえば
過去の繰り返しになってしまいます。
自分の意にそぐわないものを
どれだけ放っておけるか、
どれだけ自分の人生に集中できるか、
それも私たちそれぞれの柔軟性に
かかっています。
そんな時代だからこそ、
“自派の宗教だけが正しい”という概念は、
今後ますます意味をなさなくなっていく。
それどころが、自身の生きづらさにすら
つながっていってしまいます。
だからこそ、
一時的に勇気をだす必要はあるけれど、
『自分と向き合うこと』や
『自分を知ること』が大切です。
そして
宗教を信じることよりも、
自分を信じることに注力していくこと。
自分の信念や考え方を
大切にできるほどに、
人の信念や考え方も
大切にできるようになっていくものです。
その先で
また宗教を信じることをしていくと、
『信仰心』がしがらみではなく、
人生を豊かにするリソースとして
発動していきます。
それが単なる“依存”であれば、
人の信念や考え方を
大切にするどころか押しつけにすら
なってしまいます。
もはや
「自分たちの教えだけが本物で
それ以外は邪道だ」なんて主張は
通用しないし、誰も聞いてくれません。
他人に自分の宗教や信念を
押しつけようとする姿に、
嫌悪感を感じたり、
重苦しいものを感じるのは、
その人のなかにある“依存的なもの”を
無意識のうちに感じとっているからです。
「こういうふうにしておけば、
認めてもらえる、幸せにしてもらえる」
そんなふうに依存的に承認を求める姿に
本来の信仰心は感じられません。
自分で自身の面倒をみることなく、
人や社会の世話を焼いても、
それは信仰というものの本義から
ずれてしまいます。
決して
熱心な信者さん=依存的、
というわけではありません。
同じ言葉を発していても、
その人が人生の真ん中に自分を置いて、
そのうえで自分の信仰を語っていると、
あらまぁ不思議。
嫌悪感どころか、なんかいいなぁという
気持ちにすらなります。
その人の根っこにあるものは、
“在りよう”というものに
もれなく表現されるのだなぁと
感じることがありました。
「キリストを信じているんだ」
近所にある教会の掲示板に
こんな記事を見つけました^^
アメリカでチャプレンとして活躍する
日本人男性のインタビューです。
(※チャプレンとは、
教会や寺院に所属せず、
たとえば病院やホスピスなどで
働く聖職者のことです。)
この男性は日本でも牧師として
活動されていたことがあり、
そこは風俗店の関係者、ホームレス、
裏稼業の人たちとの関わりが
日常的な場所でした。
「言ってみれば、
彼らのほうが牧師やクリスチャンたち
よりずっと人を見抜くし、
人生を知っているんですよね。
だから『救いを与える』ではなくて
自分の本音でぶつかって、
キリストを信じているんだということを
発信していくべきだと思ったんです」
“キリストを信じているんだ”
というのは私の打ち間違いではありません。
“キリストを信じるべきだ”
ではなく
“キリストを信じているんだ”
この言葉のニュアンスのちがいは
とても大きいと思います。
「誰に何を言われても
ひたすら自分であること。
神が自分を自分として造られたんだから
それ以外の人間を装うのは
不信仰だと思うんです。」
インタビューの後半にあった
この言葉には、
“神”に対するゆるぎない信念がありながら、
そこに依存性は見あたりません。
自分の信念の押しつけは
みじんも感じられませんでした。
むしろ
なんか自由な人だな~^^♪
という印象です。
あくまでも男性自身の人生が
真ん中にちゃんとあります。
聖人君主な雰囲気でもなく
ロックバンドを結成して
音楽を通してキリスト教を
広める活動もされているの
だそうです^^
この方は
You Tubeでの発信もされていて、
他宗派の方との対談動画もありました。
自身の信念を大切にしているだけあって
相手の信念に耳を傾ける姿勢にも
徹底したものがありました。
組織の変化|『ピラミッド型』から『フラット型』へ
これからの時代、
きっと宗教の在り方も変わっていきます。
学校の教育、
政治の在り方、
そんなまともっぽいものですら
マインドコントロールの要素を
たくさんはらんでいるのに、
宗教だけが洗脳の権化のように
扱われてきたのには少し違和感があります。
けれど、
宗教的な組織構造というものは、
ピラミッド型の構造が色濃くでてしまう
ものであり、スケープゴート的な扱いを
受けてしまうのも仕方ないところがあります。
世の中の動きが
ピラミッド型(支配する・支配される)から
フラット型(共存・調和する)の組織づくりに
シフトしてきている今、
宗教的な組織こそ、率先してフラットな在り方に
シフトしていくべきではないかと思うのです。
いわゆる
新宗教や新興宗教が大きく成長し、
台頭していったのは、
終戦直後から高度経済成長期をへて
バブルが崩壊する90年代頃のことでした。
終戦を迎え、新たな時代への
期待と不安が入り混じるなか、
人々は外側に答えを求め、
隣にいる人と同じ判断をすることで
安心安全を得る時代でした。
白なのか黒なのか、
正しいのか正しくないのか、
それをわかりやすく示し導いてくれる
新興宗教の在り方に人々が惹かれたのは
自然なことでした。
しかし、
これからの時代は、
白なのか黒なのかではなく、
淡いグレーから濃いグレーまで、
選ぶ濃さは人それぞれ。
自らの意志でそこに立つ、
ということが求められます。
自分で決めたのなら、
どこに立っていてもいい自由な時代です。
戦争の時代が終わり、
“正しいってなんだろう?”の答えを求めて
人々が新しい宗教に希望を見いだしたように、
私たちも新しい時代に順応していければと
思います。
どちらが良い悪いではなく、
諸行無常なこの世の変化に
なんとか乗っていこうとするそのプロセスが
大切なのかもしれません。
組織レベルで変えていこうとすることは
容易いことではありませんが、
個人レベルで変わっていこうとすることは
それほど難しいことではありません。
前回の記事でお伝えしたような、
「信仰心」というリソースは、
同調圧力からの解放をも
もたらしてくれるものです。
そんなリソースを既にもっている人こそ、
この時代の変化の波にのりやすく、
また変化を促せるだけのパワーを秘めています。
私個人としては、
何を信じようと、誰を信じようと、
つながる先は概ね同じようなところ
なのではないかなと思っています。
だからこそ、
それぞれが信じたいものを大切にして、
それをお互いが認めあって共存できる。
そんな世の中になっていくといいですよね^^
宗教や信仰のことだけでなく、
ひとり一人の考え方や信念も。
【支配する・支配される】という構造から
【共存・調和する】という、
これまでとはまた違う在り方が求められる今、
私たちひとり一人が少しずつでもできることがきっとあります。
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Q.「ソマティック(身体性)とは?」
●【概念編】
⇒思考(左脳)と身体感覚(右脳)のちがい①~⑤・<最終章>
※<最終章>までの連続シリーズです。
●【本質編】
⇒ソマティック(身体性)な探究~本質編~
●このブログでは、
【パーツ心理学】にもとづいて、
身体の細胞や感情に対して
“擬人的”な表現を多く用いています。
自分と向き合ったり、
感情と距離をおくことを優しく
手伝ってくれる神経生物学的な考え方です^^