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【思考】と【身体感覚】のちがい
前回までの記事で、
思考(左脳的)と身体感覚(右脳的)のちがい
についてお伝えしてきました。
まとめも兼ねて一覧にしてみると、
こんな感じになります。

✓ How?・材料
✓ 培われるもの
✓ 努力の必要性
✓ もたらされるもの
✓ 心理学的アプローチ
✓ 脳の働き
それぞれのリンク↑を貼っておりますので、
もし読まれてない項目があれば、
ご参照ください^^
【思考】と【身体感覚】について、
また【思考】だけのプロセス、
【身体感覚⇒思考】のプロセスのちがい
について少し深めていただけたでしょうか。
シリーズとしては一旦完結となるのですが、
いよいよ後半では“宇宙”まで持ちだして
「宗教肯定派」の一面を色濃く出して
きやがったなこのやろう!な状態です(笑)
あらためて、
私は特定の宗教の教義をしのばせて
広めようとしているわけでもありません。
こちらの記事でも書いていたように、
「宗教肯定派」の「宗教」が意味するものは
“人智を超えたところに大切なことはある”
という確信です。
それは、
あらゆる宗教がもつ教えの共通項に
存在しているものと思います。
そしてまた、
“宇宙”という言葉についても、
便宜上“宇宙”とは表現しているものの、
宇宙のどのへんから、どんなものが、
どんな作用でそうなっている、
というところをつかめているわけでもありません。
ただ、
『探究』を深めていくほどに、
その体感から得られるものは
“宇宙”としか表現し得ないものと
感じています。
それはいわゆる無重力感とか、
そういうことではなくて、
「あ、きっとそいういうことなんだろうな」
という気づきというか、
そんなところなんですね。
言葉にしきれないことが
もどかしいです(笑)
それでは今回の記事の本題に
入りたいと思います^^
本当に大切なことは“在りよう”
【ソマティック(身体性)】な『探究』とは、
テクニックではありません。
特にルールがあるわけではないのですが、
“こういうことが起こっているんだ”
ということがあらかじめわかっていると、
体得していきやすいものがあります。
カウンセリングのときにも、
『心理教育』というような形で、
「~という理由で〇〇ということが起こるんです。
だからこんなワークをやってみませんか?」
というご提案をすることがあります。
これをお膳立てなしに進めてしまうのと、
その概念をわかった上で進めていくのでは
雲泥の差があるんですね。
そんな理由から、
ここまでは
【ソマティック(身体性)】な探究についての
概念をお伝えしてきました。
ここまので記事を“概念編”としますと、
今日の記事は“本質編”として書いてみたいと思います。
これから、このブログで
“ソマティック(身体性)な探究”
の土台となる【身体感覚】を養うための
具合的な方法をいくつか書いてみたいと思っています。
そこで気をつけたいことは、
その方法(テクニック)が大切なのではなく、
あくまでもその手前にある
“在りよう”が一番大事だということを
損ねることなく丁寧にお伝えしていきたい、
ということです。
今回は
その在りよう(スタンス・態度)について、
本質的なことについて書いてみますね^^
————
これまでの概念編シリーズで、
【身体感覚】を取り入れると、
いいことありまっせ!な表現に
なっていたこともあったかと思います。
それも事実であり、
大切なことではあります。
けれど、
本質的なことは
ソマティック(身体性)を知ることや
実践することにはありません。
どんなこともそうですが、
その在りよう(スタンスや態度)が
一番大切です。
では
ソマティック(身体性)な探究において、
私が一番大切だと思っている
在りよう(スタンスや態度)とは
一体なんでしょうか。
それは、
身体の細胞たちへの
「ありがとう」と
「ごくろうさま」という態度です。
これはソマティック(身体性)の領域で
断定されていたり明確なエビデンスが
あるものではないのですが、
これこそが『探究』の重要なスタンスなんです。
私もこれまでの概念編シリーズのなかで
“身体に力みがないこと”や
“身体がゆったりしていること”が善であり、
“身体に力みがあること”や
“身体に緊張があること”は悪である、
というような表現をしてしまっていることも
ありました。
たしかに、
前者のほうがメリットが多いものです。
でも
もっともっと大切なことは、
身体の細胞たちへの
「ありがとう」と
「ごくろうさま」という態度です。
この在りようさえ大切にしていれば、
身体が緊張していたってべつにいいんです。
私もこれだけ身体について探究し、
大切にしているのに、
(むしろそうだからかもしれません^^;)
身体を【思考】であつかってしまうことがあります。
これは私が実際にやってしまったことです。
身体を通して自分とのパートナーシップを
築くという、なんとも本質的な探究を
楽しむことができてきた頃。
身体がゆったりしてると、
あらゆることがもたらされるんだ♡♡
という確信とともにテクニカルにそれを
捉えはじめていました。
しばらく忙しい日々が続いていたので、
気分転換にマッサージに行くことにしました。
そして気心知れたセラピストさんと
ゆっくりおしゃべりを楽しんでいると、
セラピストさんから
「柴田さん、今日すごい凝ってましたね~。
お忙しかったんですね、お疲れさまです!」
という労いの言葉をいただき、
私はなぜかモヤモヤしてしまったんです(笑)
どれだけ忙しくても、
なるべく身体がゆるまるような生活を
心がけていたし、労わっていたのに、
それでも凝っていたのか~という気持ちが、
身体に対して「なんで?」という意識を
向けることにつながっていました。
心のどこかで身体を責めていたんですね。
“こんなに気にかけて大切にしているのに
なんで凝ってるのよ!”
みたいなことが自分のなかで起こっていたんです。
これが【思考】のしわざです。
“愛されるため”に“頑張って”いるのに、
それがうまくいかないと執着して
追及してしまうという(笑)
(これって人間関係でも
起こりがちなことですよね^^;
ソマティック(身体性)という
切り口からの探究が、
あらゆる問題への解決策と
なりうることがよくわかります。)
身体に緊張感があることよりも、
こうしたナンセンスな在りようのほうが、
流れに対する“抵抗”になってしまうことが
なんとなく想像できますよね。
そうした自分の“在りよう”に気づき、
はっとした私は、気持ちを立て直しました。
そうでした。
こうやって自分の考えや気持ちを
文字に打ち込むことだって、
腕や肩が頑張ってくれているから
発信できているわけで、
細胞たちだって疲れないわけないんですよね。
「あ~ごめんねぇ。
いつも頑張ってくれてるのに
責めるようなこと思ってしまって。
いつもありがとうねぇ♡♡
もうバキバキに凝っててもべつにいいよねぇ。」
と、もはや身体の凝り対するこだわりは
なくなっていました。
そして細胞たちへの優しい気持ちを
大切に日々を過ごしていたとき、
流れは思いがけない方向へ進んでいくことになりました。
これはまさしく宇宙からの贈りものとも思えました。
身体はガチガチだったのに、
ピタリピタリと、
そのとき必要だったものが
もたらされる結果となったんです。
そして
身体もゆるまっていく、
という特典つきでした^^
(このことはまた別の記事で
書いてみたいと思います^^)
このことからも分かるように、
一番大切なのはその方法論でも状況でも、
なんでもありません。
細胞たちへの
「ありがとう」と
「ごくろうさま」。
この在りよう(スタンスや態度)が、
前述した一覧の【身体感覚】のすべてを
網羅していくことになるんですね^^
細胞たちに送った“愛”は、
自分の内側で大きく循環しはじめます。
“すべてのことの本質はつながりにある”
の記事でも書いていたように、
あらゆるレイヤーに“つながり”は存在しています。
細胞レベルで起こることは、
他者とのレベルにも影響を与え、
さらには宇宙レベルの作用を引き起こしていく。
そんな仕組みがあるのだと考えれば、
なんら不思議なことでもないのかもしれません。
本質的な私たち(魂)の流れ
概念編では、
身体のもつ“知性”や“ちから”に
興味をもっていただけるように、
いろいろな視点から
つべこべいろんなことを
お伝えしてきました。
でも、
ソマティック(身体性)な
『探究』のさきには
こんなシンプルな世界観が見えてきます。
そもそも、
本質的な私たち(魂)の流れは、
こんな感じ↓なんです。
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これは
トラブルや不測の事態がまったくない、
という意味ではなくて、
それら含めて順調にすいすい進んでいるんだ、ということです。
ですが私たちはこれまでの人生で、
身体に“傷”を抱え、
さらにその“傷”を抱えたまま
愛されるために頑張ることを
求められてきました。
本来であれば、
『順調に進んでいる流れの一端』に
過ぎなかったはずのトラブルが、
“傷”を抱えた身体で捉えてしまうことで、
『うまくいっていない』という認知となり、
それにフォーカスし続けることで本当の
トラブルのようになっていくんですね。
私たちの体感としては、
こんな感じ↓になってしまっています。

こんなふうに力をいれていると、
ずーっと力をいれ続けることに
なってしまうんですね。
矛盾するようなのですが、
「頑張らなきゃ!」とか
「努力しなきゃ!」という力みが、
本来の本質的な私たち(魂)の順調な流れに
対する“抵抗”となってしまいます。
では、
どうしてそうした“抵抗”が生まれるのか?
それは、
自分(小宇宙)そしてこの世界(大宇宙)、
つまり自分の人生に対する【信頼】がないからです。
【信頼】がない、というよりも
【信頼】できなくなってしまった、
という表現のほうがふさわしいかもしれません。
きっと本質的な私たち(魂)は、
そうした【信頼】をもって生まれてきました。
けれど、
誰もが経験する
お母さんやお父さん、周りの大人たちに
愛されなければ生き抜けない、
という幼少期のサバイバル体験に始まり、
大人になってからも、
「人からの承認や賞賛」
「学歴や肩書」
「異性からの求愛」
「お金や財産」・・・
“あらゆるものから
愛されなければ意味がない”
という価値観の刷り込みは続きます。
愛されなくなる恐れや不安は
無意識のうちに身体に刻みこまれます。
だから
誰かになにかに“愛されるため”に頑張ってしまうんですね。
「人からの承認や賞賛」
「学歴や肩書」
「異性からの求愛」
「お金や財産」・・・
本来であれば、
本質的な私たち(魂)を生きたときに
生まれる副産物であるはずのこれらの
ものを思考フル稼働で追いかけているうちに、
自分の人生に対する【信頼】をどんどん失っていってしまいます。
————
私には、信仰上の教義という
“正しさ”への【依存】がありました。
それは、
自分の人生に対する【信頼】がなかったがために、その“正しさ”に従順であることで安定への担保や人からの承認を得ようとしていたんですね。
でもそのことに気づき、
【依存】から【自立】、
そして【自律】のプロセスを辿ったとき、
最終的に辿りついたのは“ゆだねる”ということでした。
あれ?
【依存】から抜けださなきゃ!
と思って【自立】の道へ進みはじめたのに、
結局同じようなところに辿り着いている…
という不思議な感覚に陥りました。
でもその“ゆだねる”という境地に
辿り着いたとき、
しっかりと地に足がついていて、
心と身体には一体感があり、
脱力というよりも力強さがみなぎっていました。
【依存】と“ゆだねる”の違いは、
自分(小宇宙)そしてこの世界(大宇宙)、
つまり自分の人生に対する【信頼】があるかどうかだったんですね。
それは言い換えると、
“今”に対する【信頼】ともいえるかもしれません。
そうなってくると、
“今に最適化する”という
【身体感覚】のやり方が、
いかに本質的であるかが見えてきます^^
————
この世界の原理原則は
きっと驚くほどにシンプルです。
【身体感覚】が教えてくれる
“魂”の声をちゃんとキャッチすると
なぜか流れにのれてしまう、
というのは全然テクニカルなことでも、
今さらあきらかにされたことでもないよう
に思います。
ずっとずっと連綿と続いてきたことであり、
私たちが社会の発展とともに、
【思考】を目まぐるしく働かせまくって
分からなくなっていただけなのだと感じます。
日々過ごしていると
いろんなことがありますよね。
感情が揺さぶられるようなことも
起こります。
そんなとき、
ふっと肩のちからを抜いて
【身体の細胞たちへの
“ありがとう”と“ごくろうさま”】
のスタンスにもどってみてください。
自己肯定感を高めるために
あれをしなきゃ、
これをしなきゃ、
なんてことはないんです。
身体は本当にすごいんです。
身体の細胞たちと仲良くなって
いくことからはじめていくと、
プロセスが自然と進んでいくようになります。
こんなシンプルな在りようが、
自分(小宇宙)を信頼することに、
そしてこの世界(大宇宙)を信頼することに
つながっていきます。
そうなったら、
もう抵抗することをやめて“ゆだねよう”
という心境になるのは時間の問題。
そして、
これまで悩まされていたようなことが
本来の流れに戻っていくので、
つっかえが取れたように
“すいすいすい~♪”と進んでいったりするのです。
でもそれはあくまでも副産物です。
“愛されるため(=うまくいくため)”に
そうするのではなく、
ただ“自分を愛してみよう”という、
純粋な気持ちが《抵抗》を溶かしてくれるんですね。
抵抗することをやめて“ゆだねよう”
という心境になる時点で深い充足感が
あるので“うまくいくかどうか”は
どっちでもよくなります。
そして恐らくうまくいきます^^
とっても不思議な話です。
自分を信頼するからこそ、
自分の小ささを素直に認めて
大いなるなにかにゆだねてみようと
思える・・・
このことは、
宗教や信仰の根源的な意味あいに
通じるものがあるのではないかと
感じています。
そして、
その宗教や信仰の在りかたによっては、
自らを非力化させる要素を孕んでいる、
ということも見逃せないエッセンスです。
————
今回の記事では、
本質編ということで
シンプルながらとても大切なことを
お伝えさせていただきました。
でも、
これまでの概念編も
つべこべと表現しているだけあって
やっぱり大切なことなんです^^
できるだけ
混乱を招かないように、
引き続き発信していけたらと
思います。
そして、
これからますます
一人ひとりの「ニューノーマル」が
求められていくなかで、
ご自身の身体がもつ“知性”と“ちから”を
信頼し、安心感のもとで
人生という『探究』を深めていくための
一助にしていただければ嬉しく思います。