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生きるための【手段】が【目的】になっている
生まれたときから宗教や信仰のある
家庭に育つと、信仰の良し悪しに関わらず、
考え方はどうしても偏ってしまいます。
特に、2代目以降の信者さんの場合は、
宗教や信仰が『生きる手段』ではなく
『生きる目的』にすり替わっていることが
ほとんどです。
もともとの性格が真面目で
責任感が強いほど、
さらに信仰の教えで
がんじがらめになってしまいます。
必要以上の荷物を一人で
抱え込んでしまっているのに、
その自覚もあまりない状態かも
知れません。
信仰の教えとされているものが
いつも真実とは限りません。
本来の教えから派生して、
信者のあいだで牽制し合い、
我慢くらべのようになって
しまっているようなこと
だってあります。
諦めや忍耐をえらんだ
先輩の選択が正しいもの
として、後輩に伝わって
いることだってあります。
本来の教えは
むしろ穏やかで、
人びとが生きやすくなるためのもの
であるはずなのに、
人が集い、文化を形成するなかで
独自のルール(しかも暗黙の)が生まれ、
まるでそのルールが教義そのものの
ように扱われていることもあります。
信仰の教えだったと
思い込んでいたものが、
育った家庭の考え方だった
ということだってあります。
宗教や信仰があることによる
苦しみの種は、
実は教えそのものではなく、
その集団社会性
にあることが少なくありません。
けれどもその歪(ひずみ)は
表にでてくる
ものではなく、
ひっそりと個人の内側で
息苦しさとして、
少しずつ蓄積されていきます。
実際に周りをみても、
昔からなじみのある人たち、
自分のことをよく知ってくれている
優しく親切な人たち。
だからこそ、
自分の感覚に罪悪感を覚えてしまう。
これまでとはちがう
生き方をしようと思っても、
立場のある両親や家族の顔に
泥を塗ることになるのでは?
これまで励ましてきた
後輩たちにはどう説明するのか?
いろんな葛藤がでてきたり、
このままの生き方を続けることに
違和感を感じたり・・
これまで抵抗がなかったのに
ふとそんな感覚がでてくることが
あります。
それは、
これまでを否定するわけではなく、
少し生き方を変えてみてもいい
かもね?
というサインです。
そんなタイミングが訪れて
今こうしてブログを読んで
くださっているかもしれません。
自分で「選択する」「採用する」ということ
2代目以降の信者さんが苦しいのは、
その信仰を「自分で選んだ」
というフェーズがないからです。
1代目の人が、その信仰を
自分の人生において“選択するか否か”を
選択した瞬間があったように、
2代目であろうが3代目であろうが
その選択権をちゃんともっています。
けれど、
宗教や信仰に苦しむ人は
自覚もなくその選択権を放棄して
しまっています。
“生かされている”という概念は
たしかに真理に近いものが
あるのかもしれません。
だけども、
“生きている”という実感なしに、
自分のエゴとの向き合いもなしに、
辿りつける境地ではないような
気がします。
それが一番正しいのだと
幼い頃から教えられ、
本人の性分が少し思慮深かったり、
本質的なものをつかむのが上手かったり
すると、あっさりそれを受け容れ、
だんだんと単なる諦め上手になっていったりします。
どれだけ
思慮深く、もの分かりのいい人間でも
「望み」や「欲求」がないはず
ないですよね。
でも
そんなふうに諦め上手になると
自覚もないまま「望み」や「欲求」を
抑圧するようになっていきます。
自分の素直な
「望み」や「欲求」を無視した上での
“生かされていること”への感謝って
なんでしょう?
なんとなく
薄っぺらいような気が
しませんか?
もしも、
その教義を大切にしたいあまり、
自分の我慢が大きくなってきて
いるのなら、すぐに
【信仰を手放す】
という道を選ばなくても、
【教義のなかの価値観を
採用するかしないかを選ぶ】
という方法をとってみてもいいかもしれません。
信仰をもつ家庭に育った
こんな男性がいました。
その信仰では、
性的なものやセクシャルなものが
“悪”とされていました。
「性・セクシャル=悪」
という価値観を、
子供のころから
刷り込まれていた彼は
思春期の頃にわいてくる性的欲求を
無理やり抑えつけていました。
その欲求がわいてきたとき、
その罪悪感に耐えかね、
黒いえんぴつで白い画用紙を
真っ黒に塗りつぶす、
という方法で欲求をなかったことに
しました。
大人になった彼が強迫性障害に
悩まされることになったのは
不思議なことでもなんでもありません。
とても信仰心の強い彼は
それでも信仰をやめる、
ということをしませんでした。
しっかり自分と向き合って、
「自分で選択する」
ということができるように
なっても、です。
彼にとってその信仰は
本当に大切なもの
だったんですね。
そして
「性・セクシャル=悪」
という価値観だけを
採用しないことを決めたのです。
とてもクレバーな選択だな、
と思います。
さらに、
セクシャルな概念についての
トラウマを乗り越えた彼は、
“セクシャリティというものは
本来美しいものだ”
という強い信念をもっています。
彼のパートナーはとても
幸せですよね^^
トラウマとなっていた
性というものと向き合い、
それを乗り越えた彼は、
他の男性にはない彼独自の
“パートナーを幸せにするちから”
を手に入れました。
このブログでお伝えしていることは
「宗教や信仰から離れて!」
ということではありません。
自分の「望み」や「欲求」
にも正直になって、
「自分で選択する」
ということが罪悪感なしに
できるようになれば、
この彼のように、
その信仰のなかにある価値観から
「採用するもの」、「採用しないもの」
をわけることだってできます。
もしも今、
“そんないいとこどりできない・・”
という罪悪感がでてくるということは、
人生の軸が宗教にある証拠です。
その軸を自分の方に移動
させるだけで罪悪感は
ちゃんと消えていきます^^
宗教のある家庭に育った人の3タイプ
宗教のある家庭に育つと、
だいたい3つのタイプに分かれます。
①宗教に興味を示さず、
自分の道を進んでいく。
(肯定派と否定派がいます)
②宗教の価値観を受け容れて、
宗教にコミットしていく。
③宗教にコミットすることはないが、
自分が上手くいかない
言い訳に宗教を持ちだす。
この中で、宗教がなくなると一番困るのは
実は③のタイプです。
自分が上手くいかない言い訳がなくなるからですね。
これが本物の他責マインドタイプです。
このタイプは宗教のあるなしに関わらず、
人生は上手くいきにくいです。
●他責マインドタイプ
=目の前に起こる出来事の原因が
他人にあると考える、
依存性の高いタイプ。
人生が上手くいきにくい。
●自責マインドタイプ
=目の前に起こる出来事の原因が
自分にあると考える、
自律性の高いタイプ。
人生が上手くいきやすい。
恐らくこのブログを
お読みくださっているのは、
②のタイプの方が多いのではないか
と思います。
②のタイプの多くが
「一見自責マインド」タイプ
といえます。
「一見」とあるように、一見自責マインド
に見えるこのタイプの人には
「隠れ他責マインド」が潜んでいます。
実際に「一見自責マインド」タイプの人の
行動や考え方を見ていると、
問題を人のせいにせず、
自分を責める傾向が強いのです。
それも必要以上に。
ではなぜ、
そんな自責タイプに見える人が
「隠れ他責マインド」なのか?
それは、
“正しさ”への依存が潜んでいるから
です。
そんなつもりがなくても、
実は正しく在ることで
見返りを求めようとしてしまっています。
“正しく生きているのだから、
幸せになって当たり前ですよね?”
という期待と要求が潜んでいることがあります。
実のところ、見返りを求めない選択
を重ねていくことが
成功への一番の近道です。
自分の人生の舵取りは、
自分にしかできません。
それが分かっていても
決断できない言い訳に
“正しさ”を
持ち出してしまいます。
もちろん、
本物の他責マインドの人に比べ
人生は上手くいきやすいですが
“そこそこ”に始終してしまいます。
そして、これからの時代は
「一見自責マインド」のままでは、
残念ながらそこそこの人生を送ること
すら難しいかもしれません。
“正しくいきてきたはずなのに・・!”
という言い分は誰も聞いてくれません。
しかし
一見自責タイプの人は、
自分のことをきっちりとこなし、
人へのサポートにも惜しみなく
力をそそぐことのできる
底力のある人です。
仕事において努力してきたこと、
地道に積み重ねてきた習慣、
人に向けてきた思いやり、
それらすべてが既に土台として存在
しています。
つまり、②のタイプの人が、
“正しさ”への依存を手放して、
本物の自責マインドを手に入れると、
これまでに培った底力
を思いっきり発揮して、
自分はもちろん周りの人も幸せな
人生を送ることができるのです。
「一見自責タイプ」の人に必要なことは、
過酷な試練ではありません。
もっともっと自分を大切にする、
ということです。
Body(身体)と Mind(思考)の声を聴き、
自分のことをよく知って
自己信頼を取り戻すことが必要なのです。
そして今いる環境すべてが、
自分が選んだ結果であったことを
理解できると、
本当に自分が望んでいるものを
選択していけるようになります。
たとえ、
宗教や信仰のある家庭に生まれて、
生きる道はもうすでに決まっているのだ
と思える場合でも同じことです。
たしかに、
生まれたときから「死生観」すら
潜在意識にすりこまれるほどの環境で育ち、
何のために生きているのかの答えを
早々に教えられ、
今さら自分の人生を生きろなんて
人に比べて難しいのは事実です。
それでも
一度、自分のことを大切にしてみて
ください。
本当のあなたの望みは、
今している仕事と別のことで
誰かの役に立つことかもしれません。
自分の心が選んだ人と結婚することかもしれません。
これまで趣味をさらに追究して、
自分オリジナルの形で世の中に
広めていくことかもしれません。
ただただ自然ゆたかな場所で
ゆっくり過ごすことかも
しれません。
やっぱり、この信仰のために
生きていきたいと望むかもしれません。
魂に根づいた信仰心のあるあなただからこそ、
自分の人生を生きだすと本当に
スムーズに進んでいくことができます。
もしも今、
「生かされている」という信念が
きゅうくつさにつながっているのなら、
まずは、
「生きていること」の幸せをあじわって
みてください。
どれだけ、
自律や自責といったって、
自分ひとりで生きていくことは
できません。
「生きていること」
をあじわっているうちに、
あらためて
「生かされていること」
にたどり着きます。
そのときに、
目には見えないもの
に委ねることをもう一度思いだして
みてください。
自分がやりたい!
と思うことを貫き、
それが人々の歓びにつながり、
結果として精神的にも経済的にも
豊かな人を成功者と定義する場合、
成功者の条件のひとつに
“信仰心”をもちあわせていること、
が挙げられます。
目に見えないものを信じ、
時には身をゆだねることのできる
柔軟性や、護られていることを
実感しているからこその感謝、
堂々と次の一歩を踏みだす行動力が
本人に自覚がなくても、世のため
人のための行動につながっているからです。
そんな純粋な信仰心をすでにもっている
あなたが、本当のあなたでいることができたら・・
どれだけ幸せな人生になるでしょう。
ちなみに、
私は宗教や信仰そのものを
否定しているわけではありません。
「宗教している人は、目が死んでる」
なんて、何も知らない人が言うのを
聞くことがあります。
実際に見てきて、目が死んでる人
なんてほとんどいませんでした。
“この人、この教義についていきたい!”
と心から望んで行動している人には、
戦国武将に通じる忠誠心を
感じて尊敬してしまうほどです。
(その教義が健全なものであることが
大前提です。)
その人の場合は、その人自身が
心から望んで宗教にコミットしている、
ということなのでその人にとって
幸せなのは当たり前なのです。
「選ばされる」のではなく
「選ぶこと」が大切である、
ということがお伝えしたい
ことの主旨であることを、
ご理解いただければうれしいです。
——–
Q.「ソマティック(身体性)とは?」
●【概念編】
⇒思考(左脳)と身体感覚(右脳)のちがい①~⑤・<最終章>
※<最終章>までの連続シリーズです。
●【本質編】
⇒ソマティック(身体性)な探究~本質編~
●このブログでは、
【パーツ心理学】にもとづいて、
身体の細胞や感情に対して
“擬人的”な表現を多く用いています。
自分と向き合ったり、
感情と距離をおくことを優しく
手伝ってくれる神経生物学的な考え方です^^