宗教肯定派カウンセラーの宗教観

今年もお盆が終わり、
8月ももうすぐ終わりますね^^

ご先祖さまに思いを馳せつつ、
《宗教肯定派カウンセラー》と名乗る私の、
宗教観について改めて向き合ってみました。

こんな肩書で活動していると、
“もしかしたら特定の宗教に
勧誘されるんじゃないか…”
なんていう余計な不安を与えてしまう
のでは?
と少し気になったので安心して頂けるように
お話してみますね^^(笑)

これまでにも何度かお話しているように、
私は“どの宗派が正しくて、
どの宗派は間違っている”
という考えや感覚はもっていません。

それには根拠があります。

私は先祖の存在をとても大切に
しています。

連綿と続く家系を辿っていくと、
そこには神道に深く携わっていた人、
何代にもわたる熱心なクリスチャン、
いろんな形で信仰をもった人たちがいました。

私が生まれた代は、
たまたま仏教とのご縁が深かっただけで
家系を辿れば必ずしもそうではありませんでした。

そして
聞く限りでしかわからないのですが。、
その人たちはとても、
自分らしく人生を生きていたようです^^
人が聞いたらきっとびっくりするような、
ちょっと変わり者が多かったみたいです(笑)

神さま、仏さまとともに過ごすことが
彼ららしく生きることの秘訣
だったのだと思います。

今の私につながる一人ひとりの
存在に思いを巡らせるほどに、
なにかを強く否定したり支持する理由は
なくなってしまいます。

では、
私が《宗教肯定派カウンセラー》を
名乗っているときの“宗教”とは
なにを意味しているのか?

言葉としての意味合いは少し
ちがってしまうかもしれないのですが、
“人智を超えたところに大切なことはある”
という確信、という表現が近いのかもしれません。

この感覚を信頼するための
ひとつの視点として“宗教”の意義を
感じています。

目の前で展開する出来事の
ひとつひとつには必ず意味があって、
そして意味がないという感覚で生きています。

なんだか禅問答のようですね(笑)

学生の頃から、
ひとりの時間がとても好きでした。

友達も割りと多く、
あっさりした人たちばかりだったので
ややこしいことは何もなく平穏な日々でした。

勉強もスポーツも好きだったので
なにかコンプレックスが、
といったこともなかったのですが・・
思い返せば【学校】というものが
あまり好きではありませんでした。

休みの日にまで
誰かとどこかに行ったり、
一緒に過ごそうとは思いませんでした。

一人ででかけては
電車を適当に乗り継いで知らない街へ
行ってみたり。

サイクリングをしながら
大きな古墳や遺跡をめぐってみたり。

大きな大きな岩の重なりを
半日ちかくぼーっと眺めるんです。

鳥のさえずりに耳を傾けたり、
風の気持ちよさを感じてみたり、
ときにはBGMをかけて雰囲気を変えてみたり^^

でもそんなぼんやりとした
一見意味のない半日にこそ、
私の世界が凝縮されていました。

動物園で
ラクダとホワイトタイガーを
眺め続けることもありました。

(今思い返すと、
ひたすらマイペースでいたい私と
自己実現も大切にしていきたい私と、
その対照的な部分を
ラクダとホワイトタイガーに投影
していたのかも?なんて感じます。笑)

そして、
週明けにそんな思い出話を
友人たちにするわけですが、
「ほんまなんなんww」
と笑い飛ばされるんですね。

でも
そんな彼女たちの対応には愛があって、
いまだに付き合いが続いています。

自分の世界を大切にできるからこそ、
人とのふれあいが大好きで
お互いに認めあうことができました。

大人になるにつれ、
宗教的なことも含めて
「形」にとらわれるようになっていた
ように思います。

人からの評価とか、
その場そのときの役割とか、
世間では何を幸せというのか、
信仰上の生まれてきた意味とは…
さまざまなしがらみのなかで
自分の世界というものが見えづらくなっていました。

目の前の現実や出来事に
反応することも増えていました。

でも、
人生の軸を、
そういった外側の部分から
自分自身の中心に取り戻したとき、
またぼんやりと私の世界を大事にできる
ようになりました^^

外側のなにかに価値を見いだしていると
身体がきゅっとしてぼんやりなんて
していられませんよね(笑)

でもそれがよくなかったわけではなくて、
身体をきゅっとさせて
なにかに応えようとする生き方や経験が
今の私に与えてくれているものがたくさん
あります。

ずっとぼんやりできる私だったら、
それ自体にとてつもない価値があることにも
気づけなかったかもしれません。

『置かれた場所で咲きなさい』
という言葉をよく耳にしますが、
この価値観にもとづく体験は
たくさん積んできたと思います。

だけど今は、
『咲きたい場所で咲いていくこと』
をひとつでも多く体験したいと思っています。

つくづく、
こうした言葉や気づきというのは
結論や答えではないんだなと感じます。

それがどんな成功哲学だったとしても、
行ったり来たり。

黒のときもあれば白のときもあって、
右のときもあれば左のときもあって、
言葉にしたほうがいいときも
言葉にしないほうがいいときもあって、
きゅっとしたほうがいいときも
ゆるんとしたほうがいいときもあって。

その場そのとき自分にフィットするものを
選んでいくためには、
自分なりの哲学や価値観を研ぎ澄ませる
ための《思考》も、やっぱり大切ですよね。

このブログでもお話しているように、
思考よりも感情や感覚の大切さが
主張されるようになりましたが、
決して“思考”が悪いわけではありません。

ただ
思考優位になると、
自分を見失ってしまいやすく、
外側にしがみついてしまいがち
になって生きづらくなってくる、
ということはあるかもしれません。

順番を変える、
と考えるとわかりやすいでしょうか。

思考→感情・感覚であったのを、
感情・感覚→思考の順番にしてみる。

感情・感覚をつまりなく
スムーズに受けとるために、
身体をしなやかに柔軟にして、
自分のなかから湧いてくる声に
耳を研ぎ澄ませてみる。

それから思考する、
ということをしてみると、
とてもクリアでよどみがないことを
感じられるようになります。

思考にも柔軟さが生まれて、
行ったり来たりを許せるようになります。

私にとって大切なことはこれだと
はっきり断言できて、
さらにそれをちゃんと大切にできる、
ということはとてつもない安心感に
つながります。

その安心感の源は、
《行ったり来たりを許せている》
というところにあります。

「それをずっと大切にしなければいけない」
という強迫観念はなく、
「いつそれを手放してもいいよ~」
という許可が同時におりていることで、
安心してそれを選ぶこともでき、
また覚悟もしやすくなっていくんですね^^

まだまだ思考が先立ってしまうことも
あるけれど、ずいぶんとスムーズに
なってきたように思います。

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Q.「ソマティック(身体性)とは?」

●【概念編】
思考(左脳)と身体感覚(右脳)のちがい①~⑤・<最終章>
※<最終章>までの連続シリーズです。

●【本質編】
ソマティック(身体性)な探究~本質編~

●このブログでは、
【パーツ心理学】にもとづいて、
身体の細胞や感情に対して
“擬人的”な表現を多く用いています。
自分と向き合ったり、
感情と距離をおくことを優しく
手伝ってくれる神経生物学的な考え方です^^