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「豊島美術館」という空間
直島の隣に「豊島」という島があります。
(「てしま」と読みます。)
この旅の2日目は、
フェリーに乗って豊島に向かいました。
20分ほどの航路を経て、
豊島ではレンタサイクルを利用します。
メインの目的地は「豊島美術館」。
今回の直島旅をともにした友人の
一人がここに行きたいと言ってくれて
私も晴れて訪れることができました^^
豊島の港から少し歩いたところで
電動自転車をレンタルします。
港から美術館までのサイクリングロードは
約30分なのですが、
もうずっとずっと走っていたい!!
と思えるくらい、
気分爽快な一本道。
瀬戸内海を望みながら、
その鮮やかな緑が映える棚田を
切り拓くように敷かれたサイクリングロードを爆走します。

爽快なサイクリングタイムを
惜しむ間もなく、豊島美術館が見えてきます。

美術館といっても、
ここには「母型(ぼけい)」というたった1つの作品しかありません。
それは、水滴のような形を模した空間であり
そこには「水」と「光」しかありません。
美術館の建物そのものがアートなんですね。
冷やっとする空気が漂う入り口を抜けると、
何もない空間が広がります。

なんとこの空間には柱が存在しません。
柱なしでどうやってこのドーム型の建物が存在しているんだろう?
素人にはその仕組みが、
皆目わからない佇まいです。
くしゃみひとつ、
足音ひとつが響きわたるほどの静寂です。
その空間では、
それぞれが思い思いに過ごします。
切り抜かれた屋根から見える空を
三角座りで眺める人、
あぐらの姿勢で瞑想をしているような人、
地面からじわりと湧きだす一滴の水を
じっと目で追う人、
空間中に響きわたる音に耳を澄ませる人、
そこに入り込む光や風とたわむれる人、、
「自然」が凝縮されたような空間で、
身体がしたくなったことをします。
私も、
思いっきりゴロゴロと、
その地面の感触を味わいながら
ドーム型の空間の端に入り込み、
どれくらい端までいけるのか実験してみたり、、
一滴の水が生まれ、
すごい勢いで流れたと思いきや
別の水滴と合流し、
スピードが鈍化しながらも
ひと回り大きな水滴となり、
また勢いをつけ、そして急に爆ぜたように分離する。
それは決して断絶ではなく、
たがいの進化と成長を信じて疑わないのだと
いわんばかりの鮮やかな分かち方です。
そしてそれぞれの水滴が
さらにひと回り大きくなって、
再び合流するとその勢いは
かつてないスピード感を孕みます。
その様を見つめ続けることは、
まるで地球のそとから
人々が流動的に動く様子を眺めているような感覚でした。
こんな風に、
組織が流動的になめらかに変化できたら、
一人ひとりの可能性は際限なく開かれていくのかな。
昨日の夕食に引き続き、
「アート」がそれほど遠い存在でないことを
確かめるように味わいながら、
いつしかそれらの思考も風に流されていきます。
…そして、気づけば寝ちゃってます(笑)
この美術館は人数限定の予約制のため、
滞在時間はMAXで2時間です。
もちろん、
2時間たっぷり堪能しましたが、
制限がなければ一日中でも過ごしたいと
思ってしまうような空間でした。
「母型」から深まる母性
さて、
この「豊島美術館」は、
「アート」×「建築」という試みのもと
実現されたプロジェクトです。
「アート」と「建築」の一体化、
「環境」と「建築」を対立させない世界観が
コンセプトとなっています。
豊島美術館にある唯一のこの作品は
アーティストであり彫刻家の
内藤 礼(ないとう れい)氏によるものです。
建築家・西沢立衛(にしざわ りゅうえ)氏
による建築に、内藤氏がアートを施しました。
私はこの『母型』という作品に、
妙に惹かれるものがありました。
この空間をでたところに、
ミュージアムカフェのようなところがあり
そこに内藤 礼さんの本が置いてありました。
それを手にとって
パラパラと斜め読みしていると、
「あれ・・・?」
なんかどっかで読んだことある?
あ、ちがう、
昨日の話だ。
ウッドアーティストの、
作品創りのプロセスのこと。
驚くほどに、
ウッドアーティストと内藤 礼さんの
「創造」のプロセス…
生まれゆく「それ」との向き合い方は似ていました。
内藤 礼さんが、
そのアーティスト人生をかけて
向き合っているテーマは、
「地上に存在することは、
それ自体、祝福であるのか」
というものです。
この問いの意図も、
それが生まれた経緯も私には到底わかりません。
けれど、
この問いに近いものと
私自身も向き合っていることを感じました。
『母型』とは、
英語で「matrix(マトリックス)」。
この言葉をすこし辿ってみます。
「matrix(マトリックス)」という言葉は、
ラテン語の「mater」を語源としており、
「mater」は「子宮」を意味します。
2010年に
豊島美術館がお披露目されたときの
記者会見でこんなコメントをされています。
「“ それ ”が先に生まれていたのか、
私が“ それ ”を生みだしたのかは分かりません。」
また、
別のインタビューでは
こんな言葉を残されています。
自己表現ではない芸術
自然の中の作品。作品の中の自然。 内藤 礼
というものがこの世には存在します。
一般的に作品を作るということは、
自己表現をすることというように思われます。
でも私はそうじゃない、
それだけではないと思っています。
人が作品を生み出すということは、
自己の発露だけではないはずです。
このクリエイティビティは、
【Cell ラボ】に対して私がとりたい態度そのものでした。
少しずつその輪郭がわかりつつも、
「わからなさ」というのは常にあって
それによる戸惑いも小さくはありません。
でも、
ときに戸惑いに翻弄されても
それを上回る確信が、
いつも私を真ん中にもどしてくれます。
確信とは、
「プロジェクト」が自生するちから への確かな信頼です。
そんな私自身の成長とともに、
気づけば『細胞教室』が育っていたのです。
それはまるで、お母さんと子どものようでした。
「そうか、このプロジェクトは
私の子どものようなものなんだ!」
このプロセスは、
『細胞教室』は生まれたその瞬間から、
自ら育つエネルギーをちゃんともっている!
ということに気づかせてくれました。
『細胞教室』というインスピレーションを、
宇宙が10年前の私に投げたのかもしれません。
それを受け取るのはきっと私じゃなくてもよかったのですが、
なぜか私がクソ真面目に向き合い続けることで、
そのインスピレーションを「預かった」ことになっていたのかな?
と今振り返って思います。
そんな不思議な感覚があるので、
本当に私がアタマで一生懸命に考えたり、
恣意的でテクニカルな作戦を練ったりするよりも、
もっと柔らかい在り方で見守りたいと思っています。
プロジェクトが自生するちから~プロジェクトの生まれ方・育ち方~
【Cell ラボ】は、
いわゆる「アート」ではありません。
だからといって
「ビジネス」でもありません。
でも、
ここに見つけたように
内藤 礼さんと同じような眼差しが
存在していることもたしかなのです。
『母型』=「子宮」という作品の中で、
自身の母性のようなものと向き合うことができました。
「母性」は決して
子宮をもつ女性だけのものではありません。
時代のうねりとともに
男性の「女性性」も開かれていくなかで、
あらゆる事業やプロジェクトに大きな進化をもたらす鍵なのだと思います。
to be continue…