ちょっとした実験の結果

前回までの2つの記事で、
『細胞教室』をいろんな角度・視点から
探究していきました。

この2か月近く、
一度広げた風呂敷を
コンパクトに畳みなおすような作業をしていました。

言い換えると、
『細胞教室』の解像度を上げることで

表現をシンプルにしてみる、
という作業です。

「解像度を上げていって、
シンプルになるのかしら?」

自分でやっておきながら、
そんな問いとともに進んでいます。

でも、
次第にシンプルになってきているように思います。

それはまた別の記事で^^

*************

ご縁があった場所で、
実験的にその場にあった形で
『細胞教室』を実践する一方、
このシンプル化の作業のために、

まずはいろんな場所で、
いろんな人にその想いを
伝えてみることにしました。

するとありがたいことに、
たくさんのアドバイスと応援をもらえるようになってきました。

ワークにしてコンテンツ化すること、
フロントとバッグエンドの構築、
マーケットのNeedsとWantsを
リサーチしてすり合わせること、
ブランディングのこと・・・

いただいたのは、
本当に的確で確実な意見やアドバイスばかりでした。

これはある程度想定できたことで、
応援してもらえることもとても嬉しく、
できるかぎり頂いたアドバイスを実行すべく、
まずは動いてみました。

もともとそういうことを考えることも
嫌いではないので、

ついついそのモードにはいってしまうと熱中してしまいます。。

けれど、
その熱中のなかで感じたのは、
なんだかちょっとふわついた感覚。
地に足がついていない感触でした。

不思議です。

これだけ的確で現実的な試行錯誤なのに、
地に足がついていない感じがするなんて。

いったん気持ちを落ち着かせ、
はて?とその感覚とともにいます。

なんだか根づいていない感じ。

ちょっと心もとない感じ。

あんまり膨らまない感じ。

なんとなく感じる、
「また違う発想がある気がする」という予感。

ちょっと椅子から立ち上がって、
うろうろしてみます・・・

本当はみんな体験を求めているのであって、
いわゆるコンテンツには
飽き飽きしているのに…
溢れ返ったコンテンツに
溺れかけているのに…

この世の中にまたコンテンツを増やすの?

なんだかとても心が苦しくなってしまいました。。

そう、気づけばあっという間に
“逆引きの発想” を大事にすることを忘れていたことに気づかされました。

もう一度、
初心に立ち返りました。

私はなにがしたくて
『細胞教室』なんてものをはじめているのか。

「細胞さんたちとの純粋な出会い」
のきっかけを提供していけたらな…。

偶然私が拾った、
宇宙からの贈りものを
誰かにおすそ分けできたらいいな、
そんな気持ちでした。

 

ー自分を生きていないと、
うっすら気づき始めた10年前。


“感じる” ということを
シャットアウトしていた私に、

漢方医の先生が偶然くれた
僕があなたの細胞ならいやになる」という一言。


この一言が『細胞教室』のはじまりでした。

これは今考えると、
きっと宇宙からの贈りものでした。

この一言で「はっ!」となった私は、
細胞さんたちが伝えてくれる、
自分自身の感情や感覚に、
素直に耳を傾けてみることにしました。

細胞さんたちだって、
これまで散々無視されてきたのに
急に「声をきかせて?」なんて言われても拍子ぬけです。

なかなかその声をキャッチできないながらも、

“トイレに行きたい!”と感じたらすぐに行ってみる。

ながら食べをやめて
ちゃんと味わって食べてみる。

悲しい気持ちもなかったことにせず
ちゃんと思い切って泣いてみる。

バレエやヨガをするときも、
身体の可動域がどうかよりも、
“どんな感じがするだろう?”と、
気持ちよさを味わってみたり、
なんだか伸ばしにくいな…という違和感も大切にするようになりました。

当時の私なりに、
細胞さんたちに誠意を示し続けました。

すると、
細胞さんたちも心を開いてくれるようになりました。

私がその当時の慣れ親しんだ人生を
そのまま送っていけるように
隠し持ってくれていた感情たちを、
少しずつみせてくれるようになりました。

そのたびに、
本当に自分が願っていることや
望んでいる生き方というものがわかってきました。

安心・安全・安定も大事だけど、
もっと私の人生が大切にしたいことがある、
ということにも気づきました。

当初は、
ただ自分の感情・感覚を伝えてくれる
“身体感覚” としての細胞さんたちでしたが、
その視座はしだいに「人体観」、
「パートナーシップ」、
「男性性・女性性」、

「組織・コミュニティ」、
「資本主義社会」、

そして「自然・循環」へとシフトしていきます。

“細胞さんたちと仲良くなる”
ということは、
心理学・生物学やスピリチュアリティなどの
知識や情報が先行するものではなく、
すべては体験・仮説が先、
裏付けや知識は後からついてくるものでした。

のちに
「ソマティック心理学」や
「インテグラル理論」、
「ティール組織」・「ソース原理」などに触れ、

自分が体験してきたことの実体をつかみ直すことになります。

最近では、
「西田哲学」や「物理・量子力学」との関係性からも
体験の紐解きが続いています。

「思考」だけで進むのではなく、
「身体感覚」の声をさきに聞いてみる。

それから「思考」してみることで、
浅いところでの脊髄反射的判断ではなく、
深いところで「思考」が動きだす。
それは次第に「探究」や「洞察」になっていく。

これまでは、
限られたなかの正しさに全員がYes!といって
個人が囲われていた時代でしたが、

これからは、
限りない正しさのうち、なににYes!というの
かは
個人の自由だよと放り出される時代。

そんなとき、
自ら問い立てをして「探究」したり、
外側で起こるいろいろを「洞察」できると、
すごくいいんじゃないかなぁ。

【身体性】という概念や認識をもつことは、
どんな専門領域にいたとしても、
一人勝ちの発想にならずに、
むしろあらゆる領域と統合していくことが
全体の発展につながっていくという発想が
自然と生まれることをアシストしてくれるかもしれないなぁ。

特にまだ多くの情報に晒されていない、
子どもたちに「細胞さん」と出会って欲しいなぁ、
そんな風に思うようになりました。

私は大学にも行っていないので、
いわゆるアカデミックな文化には
まったく馴染みがないのですが、
こうしたことをいろいろと探究するようになって、
あらゆる領域が同じことを言っているのに
「お互いの専門領域は完全に分化している」という事実を知って驚きました。

 

「細胞さんたち」と純粋に出会ったことで、
つまり知識ありきでなく体験が先
『身体性(ソマティック)』の概念が自然と体得されていくと、
こんな風に↑すべてのことはつながっているし、特定の領域が一人勝ちになることはありえないと思うようになったからです。

プロジェクトの生まれ方・育ち方

そんなふうに、
このプロジェクトなりのストーリーや、
ナラティブのようなものを巡るうち、
異なる4つの “プロジェクトの生まれ方” を垣間見る機会に恵まれました。

ケース1)
起業・新規事業を目的として立ち上がるプロジェクト。

ケース2)
所有している資格・肩書によって立ち上がるプロジェクト。

ケース3)
事情・必要に迫られて立ち上がるプロジェクト。

ケース4)
気づいたら立ち上がっていたプロジェクト。

私が見聞できる限りですが、
この異なるプロジェクトの生まれ方のうち、
案外と4つめに該当するものは多く、
『細胞教室』も、4つめに該当するように思いました。

プロジェクトの生まれ方が異なるように、
そこに適用するべき方法も異なるように思えました。

特に
ケース1)に適用すべき方法を、
ケース4)で適用するのはマイナスにすら作用しそうです。

ケース4)のプロジェクトの0~現在を
いくつか観察してみると、すでに0の状態のときから『自生するエネルギー』のようなものを持っているように感じられました。

ということは、
ケース4)に該当すると思われる
『細胞教室』にも自生するエネルギーがあるのかも…。

もう一度、
『細胞教室』の “0” に立ち返ってみます。

ここまで、ただ私は目の前に起こるすべてに
身体を通して丁寧に向き合っていくうち、
細胞さんたちにたくさんのことを教えてもらいました。

気づけば時代の流れの潮流と合流するような巡りあわせで
人生そのものが進んでいきます。

この時代の変遷をどう生きていくか?
真剣に模索し、実験する人たちとの出会いのなかで
自分の立ち位置を確認しながら、
自分にできることをやっていこうと決めました。

別に時代の節目に興味もなかったんだけど…
なんだかとにかくそういう流れになりました^^;

不思議と、
流されているという感覚はなく、
“のるべき流れにのっているんだな”
ということは、
冷静に感じていました。

そんな私自身の成長とともに、
気づけば『細胞教室』が育っていたのです。

それはまるで、お母さんと子どものようでした。

「そうか、このプロジェクトは
私の子どものようなものなんだ!」

このプロセスは、
『細胞教室』は生まれたその瞬間から、
自ら育つエネルギーをちゃんともっている!
ということに気づかせてくれました。

『細胞教室』というインスピレーションを、
宇宙が10年前の私に投げたのかもしれません。

それを受け取るのはきっと私じゃなくてもよかったのですが、
なぜか私がクソ真面目に向き合い続けることで、
そのインスピレーションを「預かった」ことになっていたのかな?
と今振り返って思います。

そんな不思議な感覚があるので、
本当に私がアタマで一生懸命に考えたり、
恣意的でテクニカルな作戦を練ったりするよりも、
もっと柔らかい在り方で見守りたいと思っています。

これまでも勝手に育っていたのだから、
私にできることは今までと同じように
目の前に起こるいろいろに丁寧に向き合い続けることだけです。

タテでいくか、ヨコでいくか

そんなことと向き合っていると、
“タテでいく?ヨコでいく?”
という問いが、
目の前にあらわれるようになりました。

正確に表現すると
“タテを貫く?ヨコに広げる?”
という問いなのだと思います。

いろんな葛藤がありながら、
私が今選んだのは
“まずはタテを貫く”、
そして “ヨコに広げる” でした。

いただいたアドバイスは、
“ヨコに広げる” ときに必ず私を助けてくれます。

だからしばらくは、
引き出しにしまっておくことにしました。

すぐに実行してお返しできないことを、
意見をくれたお一人おひとりに
お礼とお詫びをお伝えして…。

みんなちょっと笑いながら、
「思ったようにやってみたらいいよ!」
と背中を押してくださいます。

同時に、
同じようなチャレンジをしている同志たちの存在にも救われています。

大事なことだからこそ、
まずはそのエネルギーが真っすぐと
水面下に根づいていくこと。

そのためには少し孤独な時間も必要です。

「一人で一体なにをしてるんだろう?」
とふと我に返ることもあるけれど、
一人でないと熟成しきらないものもあって、
“つながり” が大事な時代だからこそ、
この熟成期間をしなやかに過ごせる自分でありたいなと思います。

この熟成期間にも、
ふと立ち現れてくださる方々のサポートに心から感謝して。

「目に見えるもの」がすべて、という時代から
「目に見えないもの」の価値も評価されるようになったからこそ、
この見えない水面下にどれだけ根を張っているかは、
これからぐっと大事になっていきそうです。

そんな時代だからこそ、
こんな私がお叱りを受けずにすんでいるのかも(笑)

“タテを貫く”と「自分軸」はちがう?


ところで、

この“タテを貫く”ときの
タテとはいわゆる「自分軸」と同じものなのでしょうか。

これがどうもそうではないようなのです。

『細胞教室』という謎のプロジェクトは
私が勝手に考えて、作っているものですが
「自分のものだ」という意識が希薄です。

「自分のものではない」からこそ、
私が思考でコントロールすべきものではないような気がして、
そうしようとすると、すごく心が苦しくなるのです。

ちょっと呼吸が浅くなるのを感じます。

『細胞教室』がもっている純粋性を大事にしたい。

“純粋” というと
一般的には、なんとなく清貧で、
綺麗めで、ビジネスとは無縁な、
そんなイメージがあるかと思います。

ここでいう“純粋”とは、
NPOでやっているから、

ボランティアでやっているから
「純粋」だということではなくて、

それが、
“肚からの声で体現されているか”
がひとつの重要な指標になっています。

たとえば、
レペゼンフォックスのDJ社長が
「アーティストで世界一を目指す!」
と豪語しながら、何十億円と借金し続ける姿に、私は “純粋性” を感じてしまいます。

社長自身の、
ああだから、こうだから、ではなく、
「だってこうなんだもん!」
みたいなエネルギー感が心地いい。

そのやり方の是非は別として、
曲もひとつしか知らないけど、応援しています^^

 

…そうなってくると湧いてくる疑問があります。

自分の “肚からの声” で体現されるならば、
そのプロジェクトはまぎれもなく
「自分のもの」ではないの?という疑問です。

少し長くなってしまったので、
記事をわけて書きたいと思います。

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●【概念編】
思考(左脳)と身体感覚(右脳)のちがい①~⑤・<最終章>
※<最終章>までの連続シリーズです。

●【本質編】
ソマティック(身体性)な探究~本質編~

●このブログでは、
【パーツ心理学】にもとづいて、
身体の細胞や感情に対して
“擬人的”な表現を多く用いています。
自分と向き合ったり、
感情と距離をおくことを優しく
手伝ってくれる神経生物学的考え方です^^