この活動のさきにあるものは?

どうしてこの仕事をしているのか。
なんのためにこの活動をしているのか。

仕事そのものはもちろん、
クライアントさんお一人おひとりと
向き合っているうちに、
より深くそのあたりのことを考えることが
増えました。

社会的にとてもセンシティブなテーマである
宗教について、そこと向き合ってみようと
私を選んでくださる方へ、
私がどうあることがベストなのか。

もちろん、
私自身がかつて葛藤していたこと、
そして乗り越えることができたことだから
自信をもってサポートできる。

信仰心という
なにものにも代えがたいリソース。

それをすでに持ちあわせている人が、
一人でも多く自分の人生を生きられるように
なっていったらいいな。

それが理由のひとつです。

でも、
もっともっと大きな理由があります。

それは最近になってようやく
言葉にできるようになってきたというか
見えてきたものです。

“自分らしく生きる”
ということのさきになにがあるのか。

そこには、
《世界のバランスが勝手に整う》
ということが起こってくるように
思えてなりません。

この世界を1枚のExcelシートだと仮定して…

一人ひとりに
たったひとつのセルが与えられていて、
それぞれが自分らしく生きていくと、
数式もエラーなく機能して、
そのシートは綺麗に整っていくような。

それぞれが
自分のことを知ろうともせず、
何者かになろうとして、
本来与えられたセル以外のセルに
立っていたとしたら・・・
争いは起こるし、きっとエラーだらけで
マクロだって機能しません。

“自分らしく生きる”
このいろんなところで見聞きする言葉。

言葉にするのは簡単だけど、
それを体現していくことは
決して容易いことではありませんよね。

“自分らしく生きる”
という言葉に対して、
昔の私は、
そんな楽な生き方をしてはダメだ、
と思っていました。

なんということでしょう・・・(笑)

“自分らしく生きる”と決める、
ということは、
“自分の人生に責任をもつ”と決める、
とほぼ同義であるにも関わらず、
私はそこから巧みに逃げていました。

あるがまま、自分らしく
という言葉は、
特に
周りのため、
縁の下の力持ちをしてきた人にとって
懐疑的なものに聞こえるかもしれません。

でも、
自分らしく生きる、自然体である、
ということは、
決して怠慢や利己的な在り方を

目指すものではありません。

むしろ、
自分を楽しませ、ご機嫌にする。
ときにはなぐさめて、労わって鼓舞していく。
いろんな価値観をもつことを許していく。
口ではなく身体を動かす。
勇気をだして挑戦することだってある。

そうしたことをしていくうちに、
バランスのとれた心の筋肉がついていきます。

多少ブレてしまうことがあっても、
柳がたわむように、
ゆらゆらとまた中心軸にもどることができる。

それは決してコントロールや抑圧とは
違います。

自分の内側でそうしたことができてくると、
外側に対しても同じようにバランスをとって
いくことができます。

童心に帰ることと
成熟していくことが
同時に進んでいくような^^

人との関わりのなかで、
批判や否定・争いを経験することが減り、
お互いの肯定や温かさ・喜びを経験することが増えていきます

自分のなかで対処しきれないものを
他人にぶつけることは自然体とは
少しちがうのかもしれません。

そこには
プライドだって自尊心だってあるはずで
ただただ自分勝手になることは
きっとありません。

せねばならないことがあるとすれば

人の心をずんと重くさせ、
身体を強ばらせてしまう原因のひとつが
「~しなければならない」
「~でなくてはいけない」
という、ねばねば思考です。

日々、
自分の仕事や生き方、
クライアントさんお一人おひとりと
向き合っていると感じることがあります。

唯一
せねばならないことがあるとすれば
それは
「自分らしく過ごし、生きていくこと」
なのかもしれない、ということです。

自分に与えられたセルに
一日でも早くたどり着くことが
大切なのではなくて、
ちょっとこのセルは違うかな?
あ、ここはすごくフィットするな。
そんな風に探究するプロセスこそ
大切なのかと思います。

“自分らしさ”って
きっと毎日毎瞬変わっていて、
これと言葉にすることなんて
できないのかもしれません。

でもあえて
今の私らしさを言葉にしてみるのであれば、
【探究すること】
【楽しむこと】
【気にならないこと】
がぴったりかなと思います^^

私らしさについて追究していると、、、
“宗教肯定派”と名乗るだけあって、
もともとの人間性がとても宗教的だったのだという発見がありました(笑)

子どもの頃から、
なんのために生まれてきて
この世界はどうなっているんだろう
ということをいつもずっと考えていました。

そして、
だからこそ、
なにをしていても楽しいという感覚が
ありました。

目の前で起こっていることが
本当に大切なことではない、
ということもどこかでずっと感じていました。

たとえば、
タイタニックの映画を観て、
そこで感じたことをもとに
自転車の仕組みについて考える、、、

この一見なんのつながりもないように思える事象に共通項が見つかることがありました。

あらゆることの共通項をならべてみると、
面白いことが見えてくる。

『IT』と『哲学』のように、
一見両極端にも思えることにすら、
共通項は散らばっていて・・・
それをいちいち探究することが面白い。

どんなことも、
【根っこ】について考えてみると、
日々のちょっとした行動や発想ですら
セラピーになりうるのではないかと
思えてきます。

人との関わりのなかで、
“その人がどうしたか”よりも
“その人はどういう人か”を
みていったほうが深まるときがあります。

「どうしてそんなことするんだろう?」と
頭を悩ませ悶々としているよりも、
「この人ってどういう人だっけ」に
立ち返っていったほうが意外と近道だったりします。

そうやって人と関わっていくと、
過度な期待や裏切りへの不安も
軽くしていくことができるし、
行動からは計り知れない人の温かさに
触れることだってできます^^

世間にたくさん出回っている情報は、
「相手の行動」に対する適応策が多いので、
どうしてもそうしたほうがいいのかな、
と思ってしまいがちですよね。

でも
「この人ってどういう人だっけ」を
辿っていけるのは、他でもない自分だけです。

いろんな人との関わりのなかで、
その人がどんな人で、
どんな価値観をもっていて、
どんな空気感で・・・

そんな風に考えてみることは、
自分のことを知ろうとすることと
同じくらい“自分らしさ”を知るヒントに
なります。

これほど情報に溢れた時代なのに、
自分にしかできないことは、
やっぱりどれだけ調べても
答えが見つからないかもしれません。

「気にならない」という私のセル

数年間に
カウンセリングを受けてみた時、
自分を知るプロセスで、
アダルトチルドレンな
自分とも出会いました。

ふっと力が緩んで涙も流せて、
“よく頑張ってきたね”と
声をかけることもできました。

(アダルトチルドレンという言葉がひとり歩きして、そんな片鱗が自分のなかにあると知るとびっくりしてしまいますが、こういったことは全然特殊なことでもなく、多かれ少なかれ誰もがもっています。だからそんな自分が見つかったとしても、気づけてよかった~と思って安心してくださいね^^)

自分がまだまだ甘えたい盛りのときに
年子の弟が産まれて、
母親の目が弟に注がれるようになって、、
きっと寂しさはありました。

でも母が、
私が悲しくならないようにと、
“お姉ちゃん”ではなく“きよちゃん”
と呼び続けてくれたり、
叱られたときには、
一人部屋でしくしくと泣きながら、
でも夕方になると母が
部屋にはいってきてくれて、
ぎゅっと抱きしめながら
「どうして怒られたの?」
と尋ねてくれて、
小さな頭で一生懸命考えて、
でもそれ以上に安心感で嗚咽しながら泣いていたことをとてもよく覚えています^^

母は保育職だったわけでも、
なにか子育てについて学んでいたわけでは
ありません。

学びから得たテクニックではなく、
本当の真心を向けてくれていたから
私も感じるものがあったのだと思います。

母の“自分らしさ”に、
私は育てられました。

そうやって
ツボを押さえた愛情をかけてくれたから、
寂しい気持ちより、
自分の世界の広がり、
というものがありました。

絵本を読んだり、
友達と公園や地下水路で遊んだり、
とにかく探究と発見の毎日で、
いろんなことを見たり聞いたりするなかで
善悪というものの区別がなくなっていた
ように思います。

大人になった今、
言葉にすることができてきました。

とにかく
問題を問題として認識することが
苦手です。

問題を問題として認識するから
それが問題になるんじゃないか?

絵本のなかで表現される
人や生きものの考え方や在り方は
私にそんなことを教えてくれました。

ポジティブ一辺倒というわけではなく、
ネガティブもよしとするからこそ、
そこには悪いことなんてとくにない。

あ~今そんな感じのことが起きてるのね、
という(笑)
私も何に対しても執着らしきものが
あまりありません。

家族にすら
「ほんとに執着がないねぇ」
と言われるくらいなので本当にそうなのだと思います。

決してドライとかクールなわけではなくて、
むしろホットな人間です^^

だから、
大切な祖父が亡くなったときも、
大好きな愛犬が亡くなったときも、
一瞬は悲しい気持ちにもなり、
心にぽっかり穴があいたような気持ちにも
なりました。
・・・が、一瞬のことでした。

ちゃんとどこかで繋がっているというか、
生命としての幕は閉じたけど、
どこかにいてくれていると確信しています^^

だから悲しむ必要なんてひとつもないし、
それよりも一日一日を大事にしたいです。

それが人や場所とのお別れでも同じこと。
それぞれが一番フィットするセルに近づいている。
そう考えたら、なんにも問題なんてありません^^

今ではそう言葉にして断言することが
できます。

でも、子どもの頃にふと
「いろいろなことが気にならない」
という自分の感覚が、
ちょっとずれているのだと
感じるようになったことがありました。

目の前で起こる出来事に
悩み、苦しみ、悲しんで、
それが成長や素晴らしい人生に
つながるのだと思った瞬間がありました。

…でも、
本当にそうかなぁ。
私はそこにあまり意味を感じないなぁ。
でもなんだか…
その方が立派に生きてる感じがする。

そうして物心がついた頃、
信仰上の宗教という概念に出会い、
ある意味でほっとしたというか、
【人生とはこういうものなんだ。】という
答えを得られたような感覚は、
なんとなくちゃんと生きてるっぽいものを
私に感じさせてくれました。

それとともに、
やっぱり私の考え方は
ちょっとおかしかったんだ、
という感覚もありました。

もちろん今でも、
そうした宗教的な概念を大切にしているし、
私の大事なエッセンスです。

でもその価値観100%にして生きることは、
きっと私にはフィットしていませんでした。

私に与えられたセルは
【F列の12行目】なのに
【X列の2行目】に立っていたような感じですね(笑)

だから
【X列の2行目】のセルを与えられている人にはそうした概念で生きることがフィットするし、そこに大切な経験があるということなのだと思います。

なにも否定すべきものがない、
と私が考える根拠はここにあります。

私は、
神さまのような存在のなにかが
視えたり聴こえたりという力のある人
ではありません。

それでも、
神さまや仏さまのような存在を
とても身近に感じます。

そんな風に過ごしていると、
神さまはたまにいたずらをするというか、
おとぼけなことをされるなぁと思うことがあります(笑)

人や出来事に翻弄されすぎると、
それが繰り返されたり、
悩みが深まったりしてしまうことって
ありますよね。

私はここに神さまのいたずらを
感じます。

辛いから泣いているのに、
神さまからしたら
「これすごく興味があります~!
すごく好きです~!」
と捉えられてしまって、
“あら~こういうのが好きなのね♡
じゃぁこれは?これはどう?”
なんて辛いことがポンポン放り込まれているような…

だから、
ちょっと気持ちがざわつくなぁと
思うことがあれば、
しっかり寄り添ってみたあと、忘れます(笑)

「神さま、すみません。
これ私あんまり興味がありません。」
の意思表示をして過ごすようにしています。

だからなのか、、、
あんまり嫌なことが起こりません。

いや、起こっているのに、
私が気づいていないだけかもしれません。

現実逃避ではないと思っています。
一瞬は現実に向き合います。

でも
現実を直視する目的は、
それがどれだけたいしたことではないかを
把握するため。

あとは【根っこ】の探究に取り組むことを
大切にしています。

ここにはなにがあるんだろう?
どんな仕組みが働いているんだろう?
私がこうしたら何が変わるだろう?
あ、明日は有馬温泉にいって昼風呂して
コロッケ食べよ~♡

そうやって楽しんでいるうちに
見えるものが変わってくる。
イマイチだった現実も変わってくる。

こうやって文字にしてしまうと、
なんだか奇妙な人ですね^^;

でも、
私に与えられた【F列の12行目】のセルの価値観はまぎれもなくこれです^^

誰にどう思われようと、なにを言われようと、
ただ私はこういう考え方を大切にしていきたいです。

それが、
私に与えられた【F列の12行目】の自分らしさだと思います。

発信するのなら、まずは自分から!
ですよね(笑)
徹底的にやっていきたいです。

 

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Q.「ソマティック(身体性)とは?」

●【概念編】
思考(左脳)と身体感覚(右脳)のちがい①~⑤・<最終章>
※<最終章>までの連続シリーズです。

●【本質編】
ソマティック(身体性)な探究~本質編~

●このブログでは、
【パーツ心理学】にもとづいて、
身体の細胞や感情に対して
“擬人的”な表現を多く用いています。
自分と向き合ったり、
感情と距離をおくことを優しく
手伝ってくれる神経生物学的な考え方です^^