学びの本質は“探究”にある


前回の記事では、

「ソマティック(身体性)」について
発信する理由を書きました。

学校の教育にも
変化の波が起きている、
ということについても触れました。

今回は、
「なぜ“探究”なのか?」について
記事を書いてみたいと思います^^

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学びの本質は“探究”にあるといわれています。

前回の記事で書いたように
その前提が《問い》である
ということからもそれは腑に落ちるものがありますよね。

これまでの学びで重要視されてきた
【安定・保証】のためのものではない
んですね。

これまでの教育で鍛えられてきたものとは
また違うエッセンスです^^

たとえば、
「“隙あらば探究”ノススメ」の記事で書いた
直感についての“探究”も、
誰かが言っていたことでもなんでもありません。


だから私が痛い目にあっても大失敗しても私のせい
です。

これは、
世間で人々を絶望の淵に追いやっている
“自己責任思考”とはまたちがいます。

ここでいう“自己責任思考”とは、
「どうせ私が悪いのよ」
という自分責めに向かうためのものでなく、
私自身の“純粋な好奇心”を尊重するためのものです。

“探究”というものはそうした自尊心を
知らず知らずのうちに根づかせてくれるところがあります。

“探究”をしているだけで、
【自律】のスタンスが勝手に培われていくようなものなんですね^^

探究心は、
あらゆる《抵抗》を溶かしてくれるものです。

これまでは《答え》や《結果》を
盲目的に求めさせられてきました。

でも、
その盲目的な状態から少し距離を置いてみてもいいのかも。

今、そんな人が増えてきているような気がします。

そこにきての“探究”という試みは、
《答え》や《結果》ではなく
そのプロセスそのものに安心感を抱かせてくれます

とくに“ソマティック(身体性)な探究”は、
それをわかりやすく体感させてくれます。

(その理由については、こちらの記事をどうぞ^^)


「身体」という誰もがもっている

この宝ものは実は最強のツールです。

私たち現代人が大好きな“ツール”です(笑)

目の前にある事象に対して
「エビデンスは?」
と目くじらを立てることより、
心静かに「体感は?」
と自問できることがこの先の心地よい世界の土台になっていくと私は確信しています。

 

「体感は?」
というセルフクエスチョンは、
“答えはいつも自分のなかにある”
という確信の実践を可能にしてくれるんですね^^

“何者でもない”私だからこそ

これまで
私たちが問われ続けてきたことは
“正しいことはどちらでしょう?”
“正解はどれでしょう?”
でした。

そんな社会のなかで
“知っているかどうか”
ばかりが試されるような教育が
続いてきたのは当然といえば当然なのかもしれません。

でも前述したように、
今、学校教育も
“What”から“How”に変わろうとしています。

何者でもない私が、
“探究”そのものを発信している理由は
そこにあります。

これから誰もが、
《問い》をもとに“探究する”ことを
求められていきます。

(それはなにも義務や負担ではなく、
一人ひとりが
“自分の人生を生きる”方向へ動きだす
という前向きな現象だと思います^^)

一人ひとりの探究のさきにみえてくるものは
どれが正解とか、
どれは間違ってるということはきっとなくて
恥じることなく思ったことを表現してみることはとても大切な一歩であると感じています。

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“探究”というものは、
深まっていくほどに
高尚になりやすかったり
難解になっていきやすい傾向があります。

「ソマティック(身体性)」についても
もちろん深めようと思えば
たくさんの文献や論文もあります。

(私は本当にそうした文書が苦手で
落ち着いて読もうとした日にはサウナで整えることからスタートします。笑)

けれど、
そうした知識を前提としてなくても
深まっていくのが「ソマティック(身体性)」のすごさです。

 

ソマティック(身体性)な探究は、
とても理にかなった、
それでいてスピリチュアリティに富んだ
どこまでもピュアで画期的なものだと感じています。

 

前述したような
“身体性のハブ力(りょく)”のおかげで、
【Soma(感じる身体)】を介することで
あらゆる領域のことも深まっていく、
ということが起こってくるんですね。

このブログのここまでの探究も、
なにか知識があって至ったものではありません。

ただ“身体の細胞と仲良くして”いたら
至った道のりです。

あえてひと通りの探究が終わるまでは
取り立てて知識を得ないことを心がけています。

実践と経験を経て、
ある程度気が済んだら(笑)
後追いする形で裏づけをとっています。

それがとても
時代の流れを反映したものであったり、

《内側》を知るほどに
《外側》の理解が深まっていったり、

とにかくとても不思議な体験をしています。

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ソマティック(身体性)な探究を一言で表現するなら【インテグラル理論】該当します。

【インテグラル理論】とは、
アメリカの思想家ケン・ウィルバー氏が提唱した“包括的に物事を捉えるための理論”です。

ウィルバー氏自身が、
曹洞宗の教えのなかで瞑想を究めたという
ソマティック(身体性)の実践者でもあります。

その実践からまとめあげられた理論は
《東洋と西洋の結合》とも称され、
深めるほどに味わいが増すんだろうな~
という探究オタクの心をくすぐるものでもあります(笑)

しかし、
そうだからといって早々にウィルバー氏の
【インテグラル理論】に触れてしまってからだと、このブログの目的が果たせません。

ソマティック(身体性)な探究からみえてきたことを
“そのまま”表現して、
「探究」そのものを表現してみよう!
というのがこのブログの運営目的です。

【インテグラル理論】
ポリヴェーガル理論そのものを表現することはメインの目的ではありません。

なので私がインプットを先行させて
【インテグラル理論】についての知識を
詰め込んでしまえば、
この聞き慣れない言葉のほとんどは
ウィルバー氏の言葉になってしまっていたように感じます。

それをしてしまうと…
これまでの『道徳』と変わらないかも?

そんな気がしてこんな発信を続けています。

もちろん、
あらためてきちんとインテグラル理論と
真摯に向き合うこともやっていきたいです。

どんなことでもそうですが、
どんなに素晴らしい《理論》でも
そのプロセスが実践とともに広がっていくといいですよね^^

インテグラル理論をご存知の方にとって、
ここには聞き慣れない言葉や表現が多くあると思います。

きっと恥をさらしている側面もあるんだろうな^^;
そんな思いも抱きしめながら、今日も発信を続けています。

——

私自身は、
“探究”をわざわざ深めているから
【インテグラル理論】という言葉に
たどりついているわけですが、
そんな言葉なしにインテグラルな変容を
体験している人は恐らく少なくありません


そんな人たちを観察していると

見えてきたのは“探究力”という共通項でした。


そこにあったのはスキルでも知識でもなく

『純粋な好奇心』であり、
『自分の人生への信頼と責任』でした。

(このことは、
本質的な私たち(魂)の流れ
【身体性】がもたらす気づき
にも通じるものがあります^^)

なんの保証も担保もないけれど、
そのさきをみてみようとする姿勢。

そんなスタンスが、
「1」という知識を
「10」にも「100」にも展開させる力になっていく。

あぁ、これからの時代に
求められていく力は、
この“展開させていく力”なのだなと強く実感させられます。

このスタンスにとどまれると、
【思考】の弱みにつけ込まれることはきっと減っていきます。

【思考】の弱みについては
“本質的な自分(魂)の体現”
《組織づくり》の探究の記事からどうぞ^^

“探究”のある人とのつながり

あらゆる専門領域の人たちが、
「ソマティック(身体性)」がもたらす
心身一如な視点から、他の領域のこととの“つながり”について言及していたりします。


そこでは
宗教性や精神性も損ねることなく、
寄り過ぎることもなく中庸な探究がおこなわれます。

ソマティック(身体性)な対話のなかでは、
基本的に論破や勝ち負けはありません。

お互いの「私はこう感じる」を
ただ認め合うことができます。

——–

意識的にも無意識的にも
“自己探究”をしている人たちとの
対話には面白いものがあります。

“論破”や“どちらが正しいか”
にはゴールがありません。

《内側》と《外側》ともに
世界が深まっているから、
《外側》で勝負する必要がないんですね。

強烈なインフルエンサーの存在があって
その人がいうから間違いない、
ということではなくて
「自分はそう感じるんだよね」
をお互い表現してるだけ・・という感じです。

良くも悪くも
自分にとってのインフルエンサーは
究極のところ自分しかいないことを知っています。

自分の《内側》にこそ
恐るべきモンスターがいることを
知っているから《外側》のモンスターに
おびえることがない、ともいえるかもしれません。

“こいつほどやっかいなモンスターはいないだろう”というある種開き直った爽やかさがあります。

本当にそうですよね。

自分のなかにいるモンスターに
一番手を焼くのって自分ですよね。

もう困っちゃいます(笑)

でも、
“困っちゃえる”のはきっと幸せなことで
自分を知ろうとしない
(自分への秘密がたくさんある)状態だと
外側を恐れる気持ちが強くなります。

“秘密”とは、
過去の傷だったり
トラウマだったり、
こびりついた思い込みだったり、
いらなくなったのに握りしめている信念だったり…いろいろあります。

“秘密”はきっとゼロになることはありません。

でも、
「自分に秘密にしていることがまだあるぞ」
と知ってあげてさえいれば、
そこに秘密はありませんよね。


【思考】だけで突き進んでいるとき、

“秘密”を“秘密”のままにしておきたい
(意識さえしたくない)
そんな気持ちが強くなります。


身体にグッと力をいれて、

“秘密”がもれだしてこないように
慎重に日々を過ごします。
しかも無意識のうちに。 


現代社会を生きる人のほとんどが

そんな状態だといわれています。


でもあるとき、

その“秘密”を自分にばらしてしまおうと
身体の症状としてサインが表れることがあります。

なんだか仕事に行く気にならない。
ずっとお腹が痛い。
笑うことができない。
心にぽっかり穴があいた感じがする…

それはまったくネガティブなことではなく、
生き方を変えてみてもいいかもよ?
というお知らせかもしれません。

“本質的な自分(魂)の流れ”から考えると、
それは起こるべくして起こったともいえます。

ここで身体の力をふっとぬいてみるのか、
まだまだ力をいれ続けて踏んばるのかも選択することができます。

そのタイミングをパスしても、
またちゃんとタイミングがやってきます^^

そんなとき、
「身体」がもつ力をふと思いだして
ゆだねてみても面白いかもしれません。

キャッチしてもいいし、
パスしてもいい。

このゆるやかさは、
【身体性】ならではのしなやかさだなぁと思います^^

——–

こうして“探究”を発信してみることで、
実は日頃、
無意識のうちにしているかもしれない
“ソマティック(身体性)な探究”に、
少しでもスポットライトを当てていただければ嬉しいです。

「“探究”ねぇ…。
人と会うことが続くと肩こりがひどくなる
とは思ってたけど、これも探究なのかも?」

そんなささいなきっかけで
“探究”を深めることを楽しむ仲間が
一人でも多く増えていけばいいなぁと思っています^^

そしてお互いの探究力を高めていきたいです。

あ~表現って難しい。

【探究力】って聞くと、
なんだか鍛えるもの?
なにかスキルなの?

そんな気がしてしまいますよね。

すっかり“右肩上がり思考”が
染みついてしまっているようです。。

なによりも気をつけてお伝えしたいことは、
力(ちから)とは、
Doingやスキルはあくまで結果論であり
Beingでありスタンスがベースである、
ということです^^

私が
「ソマティック(身体性)」ד探究”
を発信している理由について少しでも

お伝えできていれば嬉しく思います。

——–

Q.「ソマティック(身体性)とは?」

●【概念編】
思考(左脳)と身体感覚(右脳)のちがい①~⑤・<最終章>
※<最終章>までの連続シリーズです。

●【本質編】
ソマティック(身体性)な探究~本質編~

●このブログでは、
【パーツ心理学】にもとづいて、
身体の細胞や感情に対して
“擬人的”な表現を多く用いています。
自分と向き合ったり、
感情と距離をおくことを優しく
手伝ってくれる神経生物学的な考え方です^^