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日本人特有の群衆心理?
日本人の宗教観について
「穿った」目線で考えてみたいと思います(笑)
ちょっと短いですがコラム的に^^
「穿った」と自白しているように
この記事の考察が真実かどうかは別として
読んでくださっている皆さまに、
“信者であることに後ろめたさがあるのなら、
考えかたによってはその後ろめたさを感じる
必要ってないかもしれないですよ”
ということがお伝えしたい、というのが
この記事の主旨となっています。
「信者」
のは日本特有の群衆心理の影響
と思っています。
日本では、
「宗教みたい」とか
「
というものがありますよね。
でも一部の地域をのぞいては、
「揶揄する」
ほとんどないのだそうです。
恐らく、
「宗教」
根づきすぎている部分と
極端に馴染みがない部分とが
多くの人の中で
“カルト”と“
実際に
伝統宗教であったり、
宗教法人として活動する新興宗教
について学んでみても、
ほとんどが健全な教義のもとに活動しています。
「手段」はともあれ「目的」は、
想像されているよりもだいぶましです。
(残念ながら、
信者それぞれが抱えた
トラウマや未消化な承認欲求などが原因で
はたから見れば暴走に見えたり、
強引な勧誘につながっていたりもするのですが・・
これはまた別の記事で書いてみたいと思います。)
あぐらをかいて空中浮遊したり、
(↑このこと自体は特に悪ではないですが、
日本に“カルト”というイメージを
浸透させた団体をわかりやすく示したくて
このような表現にしています^^;)
自分たちの信仰を国教にしようと
目論んでいるのはごく一部です。
多くの人が「まとも教」の盲信者?
宗教に馴染みがないといいながら、
“普通教、
「宗教かよ!」という
揶揄を込めた発言、
「自分はまともである、普通である」
作用しているところがあると
根拠のある批判をしている方は
実は
深く考えることもなく
批判したり
私自身、
このブログで発信をするにあたり、
「やっぱり宗教やってる人って・・」
という批判をされるのではないか?
という恐怖はつねにあります。
そんななかで、
たとえば
「私の前世はクレオパトラだった」
とおっしゃるスピリチュアルな分野の方に
これまで2人で出会ったことがある、
というお話を誰かにするとします。
このことを人に話すとき、
“こういうのよくわからないんだよね~。
ね、私はまともでしょ?”
と、どこかでほっとしている自分がいる
のが事実です。
だけど私はその方の前世について、
理由も根拠も知らないし、
いわゆるパラレルワールド的な
概念で考えたら、
前世クレオパトラだった人が
2人いてもおかしくないですよね。
ほかにも
“ネットワークビジネス”
というものに対して、
私は懐疑的な思いをもっています。
けれど
その否定的なスタンスに根拠はあまりなく、
本一冊読んだ程度の聞きかじりの知識で
実際がどうなのかをよく知りもせず、
否定的な見方をしている自分がいます。
我ながら未熟な態度だなと思います。
どんな人がなにをしようとも、
「ふーん、そうなんだ」
が本心なのに、自分がほっとしたくて、
まともな人だと思われたくて
わざわざ引き合いに出してしまうのです。
だから宗教や信仰について
批判する人のなかには、
●深く考えることなく批判や否定をしている
●自分がまともだという感覚を強めている
という人がいるのだ、と考えれば、
別に「信者」というだけでみじめさや
後ろめたさを感じる必要は
ないのではないかなと思います。
宗教という輪の中から
外の世界にでてみたとき、
気づいたことがありました。
日本は無宗教の人が
多いと言われていますが、
とても多くの人が
「お金教」、「結婚教」、「正社員教」
「安定教」、「まとも教」・・・
なんらかの一般教のようなものに入信し、
それゆえ生きづらさや焦り・不安を
感じているんだな、
ということです。
最近では逆に
「個性教」のようなものが
流行りなのか、“個性的であらねば”
で苦しんでいる人もいるようです。
これまで
人生の多くの時間を
宗教的価値観とともに過ごし、
それゆえに「お金教」などの
一般教に振り回されることが
あまりありませんでした。
たとえば
恋愛に対しても、
「恋愛がしたい」
「彼氏が欲しい」
「結婚がしたい」
という理由でお付き合いをしたことがなく、
誰かを好きになるときは
「その人が好き」
という理由以外なにもなく、
案外人を愛することの本質的な経験に
つながっているような気がします。
信仰中心の生き方をやめた今、
外の世界にでたときに、
ほかの多くの人たちよりも
ずいぶん楽に生きられるのを
感じます。
宗教のあるなしに関わらず、
多くの人が本来の自分と
かけ離れた状態で生きている
のだと知りました。
世間では、
「決断」と「行動」が大切だ
といわれますが、
実際のところ、
「決断させられ」、「行動させられ」
ていることがたくさんあります。
一般教に振り回されて
「決断」し、「行動」したとき、
見返りを求めているがゆえ、
思い通りにならないと愚痴や不満が
でてきます。
たぶん、
本当に自分が望んでいるものでは
ないからですよね。
Spiritという表現がわかりやすいかも
しれませんが、“本質的な自分”で
「決断」し、「行動」したとき、
愚痴や不満はほとんどでてきません。
一見、苦しい状況に思えても、
“ピンチはチャンス”と思うことが
できます。
そういう意味で
苦しみがなくなります。
その愚痴や不平、不満を言わない
ことが次の世界につながっていくの
かもしれません。
(愚痴や不平、不満がいけない
ということではないので、
気になってしまった方は安心してくださいね^^)
“Spirit=本質的な自分”
については、次回のブログで
記事を書いてみますね。
大切なのは「信頼」と「実績」
前述したような、
深く考えることなく批判や否定を
しているのではなく、
きちんと経験や根拠をもって
宗教を否定する人もいます。
そのような無神論者の人と
お話したことがあります。
お互いの意見を尊重することができる
相手だったので
とても興味深い経験でした。
その人は、
「いや~もしも科学が
『神は存在する』と証明してくれたら、
明日にでもなにか信仰をもつのに(笑)」
と笑っていました。
私にとってはビックリなことで、
思わず、
「信仰をもつ立場でも、
昨日まで黒だったものが今日から白だと
言われても、そう簡単にはひっくり
返すことはできないんだけど、
その科学に対する過信は
盲信とはちがうの?」
と聞いてみました。
そして返ってきた答えは
「信頼と実績じゃない?
生まれたときには実現できなかったことが、
今では科学の力で実現できるようになってる
ということを実感し続けてるんだから
否定しようがない。」
・・・なるほど!!!!!!
唸るほど納得してしまいました。
それとともに、
宗教や信仰にも同じことがいえるんじゃ
ないかな~と思いました。
特に2代目以降の信者さんの場合は、
生まれたときから当り前にあるものであり、
その人にとって「信頼」と「実績」のある
ものなのであれば、
それを信じるということは
自然なことです。
宗教や信仰については、
それを人に強要しようとしたり、
巻き込む人がいることに問題があるんですよね・・
困ったものです。
ひとりごとを最後まで
お読みくださってありがとうございます^^
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Q.「ソマティック(身体性)とは?」
●【概念編】
⇒思考(左脳)と身体感覚(右脳)のちがい①~⑤・<最終章>
※<最終章>までの連続シリーズです。
●【本質編】
⇒ソマティック(身体性)な探究~本質編~
●このブログでは、
【パーツ心理学】にもとづいて、
身体の細胞や感情に対して
“擬人的”な表現を多く用いています。
自分と向き合ったり、
感情と距離をおくことを優しく
手伝ってくれる神経生物学的な考え方です^^