-Contents-
こっそりと実験をはじめました♪
なんと、なんと、前回の記事のから
早くも半年近くが経ってしまいました。
言葉にしてここに表現してみたいことは
たくさん溢れるほどあったのですが、
それが追いつかないほどいろんなことに追われていました。
どの体験もすべてがつながっていて、
毎日毎日それを味わうので精一杯な状態でした。
(なんというキャパのなさ!笑)
ただひとつの救いは、
このブログで書きつづってきた探究が前進し、形になりつつあるということです。
この数か月に得たさまざまな経験から、
深まってきた探究と、これからの構想を綴ってみようと思います。
去年の11月頃の記事で、
「宗教肯定派カウンセラー」という
1対1の対人支援の活動から、
もっともっと根源的なソマティック(身体性)な探究を
一緒に楽しんでいけるような活動にシフトしていきたいと書きつづっておりました。
そして生まれた取り急ぎの肩書は、
『身体性の探究について発信する人』でした。
「宗教肯定派カウンセラー」から
「身体性の探究について発信する人」へ。
(恐らく、身近な人にも、遠くの人にも、
“なんなんやろ、ほんま・・・”
と思われていたと思います。
あ、たぶん今 現在も。
久しぶりに記事をあげたと思ったら、
今度は『細胞教室』…大丈夫でしょうか。
どうかあたたかく見守ってください。笑)
当時も取り急ぎの肩書しか
名乗りようがなかったし、
なんだかよくわからない。
けれど確実に必要なプロセスを歩いてる!
そんな確信だけはありました。
そこからは、
“思考だけ”と
“身体感覚⇒思考”の違いについてや、
≪細胞≫という最小単位を原型として
この世界は成り立っているのかもしれないという探究など、好きなことを好き勝手に記事にしていました。
細胞の在りかたや人体観は、
パートナーシップや
コミュニティの在りかた、
組織づくりについても同じことがいえるんだということがみえてきました。
そしてその延長線上に経済社会があるんだとしたら、この社会のフレームにはちょっと無理がありそう。
なんだか自然じゃないなぁ。
あれ?
そういえば、
この社会の仕組みってどうなってるんだろう?
あ~!
今の世界は、この仕組み側に翻弄されてしまってるんだ!
なんて考えていたら、
いつしかその探究はものすごく大層なことになっていました。
でもそれらのことは
決して的外れなことばかりではなく、
社会的にも“ティール組織”という
「組織をひとつの生命体と考える」概念がトレンドになっていたり、
「資本主義一本は無理ゲー」とする潮流が起こっていたり、すべてが私の一人よがりではないことがわかってきました。
前回の記事では
「愛されたい!」より
「愛したい!」という気持ちを大切にして
生きていきたいと勝手に表明していました。
私にとって
「愛したい!」とは、
“ただ好奇心のままにこの先をみてみたい”
それを自分に許すことなのかもしれません。
もはや生き方そのものが探究の対象なので、
割りきらなければいけないことだってあります。
もう守破離なんていってられない。
その先にはなんの保証も安定もないかもしれない。
あらゆるものから“愛されなくなる”かもしれない。
それでも、
これからさき人々のニーズはもっと深みを増して
「愛されたい!」から「愛したい!」に移行してくることは間違いありません。
そんな時代を迎えるにあたって、
私は《ソマティック(身体性)》=感じる身体というエッセンスをせっせと種まきしていきたいと思いました。
方法論とかメソッドではなく、
心理でも真理でもなく、
「自分でちょっとやってみよう」と思えるような。
その在りようがいつしか
“真摯に自分(人生)と向き合う”になっていくような。
立ち上がってきた『細胞教室』
そこから数か月、
いろんなことがありました。
一番大きな出来事は、
DAO(自律分散型)なコミュニティ運営に
携わったことです。
ヒューマンポテンシャルラボという、
変態プログラムを真剣にリリースし続ける会社が
Wisdom Commons Lab というメンバーシップを立ち上げました。
(このブログを読んでくださる方なら
興味もってくださるかも!
ぜひこちらもみてみてください^^)
“DAO(自律分散型組織)” という言葉も
知らなかったけれど、
なにかを感じてこのコミュニティに参加する流れがやってきました。
当初はメンバーの一人として
参加したメンバーシップでしたが、
自然な流れで事業体のスタッフとしても
関わらせていただくことになりました。
一年間のここでの体験は、
本当にかけがえのないものです。
ビジネス、スピリチュアル、
アート、組織開発、コーチ‥‥
バラエティーに富んだいろんな領域のメンバーがいます。
多様性はありながら、
そこに共通していたのは、
自分の軌道に沿って生きていこうと奮闘している、ということでした。
そんな人たちとの関わりのなかで
私のなかの「愛したい!」も純度を増していきます。
時代が大きく変わりゆくなかで、
自分になにができるのか?
逆になにがしたくてここに辿り着いたのか?
それを体現し続けるにはどうすればいいのか?
この人生で、
どんなことにエネルギーを注いでいきたいのか?
そしてどんな人生にしたいのか?
どんな在りようであれば、
結果として社会のアップデートに
貢献することになるのか?
そのために自分に必要なものはなにで、
必要ないものはどんなものなのか?
時代が求める“つながり”とは
なんなのか?
それをずっと問い続け、
模索し続ける時間でした。
そして、
そのフェーズが一旦の幕引きを迎え、
いよいよ新しい展開が生まれようとしています。
あるときふと湧いてきたのは
『細胞教室』というプロジェクト。
どんなコンテンツになるのか想像もつきません。
ただひとつはっきりわかっていることは、
『細胞教室』といっても‥‥
こういうイメージではなくて、
こういうイメージだ、ということです。
どうやら、
細胞について詳しく学べる
アカデミックな教室ではないらしい。
はて。
一体どんなプロジェクトになっていくんだろう?
そんなところからはじまって、
『細胞教室』に必要な学びや体験が深まっていきました。
もともとそれを意識していたわけではなく、
“結果として”そうなっていたという感覚が近いです。
それこそ本当にこんな感じです。
一瞬一瞬、目の前に起こってくることを
できるだけ丁寧に扱ってみることで、
自分が果たすべき役割がみえてきました。
そして気づけば、
『細胞教室』の実験がスタート。
この記事では、
これまでの記事も引用しながら
『細胞教室』のことを書いてみようと思います。
なんだか長くなる予感。
それでも伝えきれない気がしますが、
どうか気長にお付き合いください。
「細胞」という角度を使うとみえてくるものを、
【思考】【感情】【身体】【スピリチュアリティ(魂)】それぞれの視点から書いてみますね。
【思考】細胞たちは、DAOだった
最近よく耳にする、
DAO(Decentralized Autonomous Organization)とは、
日本語で「分散型自律組織」のことです。
これまでの「中央集権型組織」では、
トップダウン型のヒエラルキーが
国家レベルでも成り立ってきました。
しかし、
国や行政が本当に人々のことを
考えているのかというと、
残念ながらそうでもなさそうです。
そんななか、
ウイルス蔓延、戦争勃発など
あらゆる問題が人々を立ち止まらせてくれました。
できるだけ国や行政をはじめとした
リーダーや権力者への依存を減らし、
自律的にメンバーそれぞれで意志決定権をもち
組織を運営していこう。
これまでの
中央集権的な在り方から
自律分散的な在り方にシフトしていこう、
そのときにテクノロジーの力も借りてみよう。
そんな発想が形になったのが
DAO なんだというのが今の私の理解です。
DAO というものが正しいのかどうかは
今の私たちにはわからないけれど、
やらないよりはやってみるほうがましです。
だからそのプロセスは
いつだって実験だし、実践です。
これまでは、
《外》の仕組み側から個人が翻弄されてきたけれど、
これからは、
《内》を一人ひとりが大切にすることで
お互いを尊重してやっていこう、
という流れが起こっているみたいです。
ここで少し、
ソマティック(身体性)×組織づくり
の記事から少し引用してみます。
これまでの組織は、
《男性性》優位の時代には通用した、
リーダーをトップとした
ピラミッド型の支配構造、
つまりトップダウンの在り方でした。
今、
このトップダウンの在り方は限界を
迎えているといわれています。
そしてその進化のなかで
模索されはじめたのが、
ボトムアップ型の組織づくりです。
リーダーだけでなく
メンバーそれぞれの主体性を
尊重していこう、という流れですね。
【人体観の変化】の記事でも
書いていたように、
社会の構造がタテ⇒ヨコへ
移行しているのとともに、
2000年代から本格的に
人体観がタテ⇒ヨコの視点で研究され、
主流になりつつあります。
脳が“司令塔”として、
すべての臓器をコントロールし、
それぞれの臓器たちはメカニカルに動き
脳に支配されていると思われていたのが、
なんと臓器たち自らのつぶやきと受容により自己調律を図っていた!という事実が次々と発見されていったのです。
あれ?
なんだか組織づくりにも、
人体観にまで同じ流れがきているの?
なんていう気がしてきます。
もう単なる偶然ではないように思えてならないですよね(笑)
このブログでは
【細胞のはたらき】
【人体観】
【自分とつながる】
【パートナーシップ】
【組織づくり】
【経済社会】という流れで、
どのレイヤーにも同じような “つながり” があることを
発見しながら探究を続けてきました。
こんなふうに、対象を個人、集団、地域といったように分断して捉えるのではなく、
それぞれがシステムとして相互作用していると捉える理論が【システム理論】です。
これもとっても不思議なのですが、
私は【システム理論】という言葉も概念も知りませんでした。
けれど、
細胞さんたちを探究していたら、
自然とそのように考えるようになっていました。
≪細胞≫という最小単位を原型として
この世界は成り立っている、
というのは私にとって真実です。
理論を知らなくても、
細胞さんたちと純粋に出会っていくことは
外側のシステムを俯瞰的に眺めることを可能にしてくれるようです。
【思考】の視点からは、
外側のシステムを眺めてきました。
ここで少し【身体】の視点への
導線となる引用をしておきますね。
組織づくりの変遷が、
このような流れをたどるなかで、
ソマティック(身体性)という領域が
注目される理由が少し見えてきたでしょうか^^
【組織づくり】にしろ、
【人体観】にしろ、
これまではリーダー(脳)の支配下で
メンバー(臓器)が動いていました。
そんな“トップダウン”の在り方が
限界を迎えた今、
“ボトムアップ”の在り方が模索
されるようになりました。
【身体感覚】とは、
まさしく“ボトムアップ”
なんですね。
【思考】でコントロールしようと
するまえに、
身体の声を聴いてみようよ、
というスタンスです。
身体感覚へのアクセスとは、
組織づくりの模索を具現化してくれる
ものなのだったのかもしれません。
【自分とつながる】とは、
【自分と向き合う】ということのさきにあるものです。
自分と向き合うこと、
果てには自分とつながることを
優しく手伝ってくれるのが、
“感情“や“感覚”などの【身体感覚】です。
【感情】知識ありきではなく
続いて、
【感情】という視点から
細胞さんたちを探究していきますね。
“細胞さんたち”との出会いは、
純粋さをもって自分と向き合うことをサポートしてくれます。
たとえば、
「インナーチャイルド」という概念や言葉を知ってしまうと、
それによって救われる側面もあれば、
どうしても知識が先行してしまうこともあります。
気づけば、
思うように行動できないことをインナーチャイルドに責任転嫁してみたり、
チャイルド探しが目的になってしまったり、
逆に過度にアンタッチャブルになってしまうこともあります。
インナーチャイルドのもととなる感情というものを、
細胞さんたちはぎゅっと握って身体のどこかに隠れることで
大切にしまっておいてくれています。
今の私たちがちゃんと生きていけるように、
邪魔になってしまう感情たちを隠してくれています。
けれど、
「トイレを我慢しない」を徹底する、
「この“悲しい気持ち”はどこの細胞さんが伝えてくれてる?」と意識してみる。
そんな単純なことを積み重ねていくと、
細胞さんたちは私たちを信頼してくれるようになります。
“今なら、この隠しておいた感情も
みせて大丈夫かな?”
私たちに受け容れる器があるかどうか、
細胞さんたちはちゃんとわかっています。
そして、本当に不思議なことなのですが、
細胞さんたちが隠してくれていた感情を
みせてくれたとき、私たちはちゃんと受け容れることができます。
ちょっとだけ、いじけ虫さんみたいになっていた
インナーチャイルドと仲直りできると、
もうとってもパワフル!
(私自身の大泣き仲直りエピソードはこちら)
おとぎ話でもなんでもなくて、
これが身体がもつ知性であり、
細胞さんたちの力なのです。
私のこのマニアックな探究は、
こんな原体験からはじまっています。
私はかつて、
カウンセリングや〇〇療法、
〇〇メソッドによって救われたわけではありませんでした。
宗教的な価値観が隣り合うからこそ、
そうした心理学などの知識や智慧を取りいれること、
サービスを受けることには罪悪感がありました。
手元にバイブルがあるのに、
外側に答えを見いだしたら私はこの世界から
爪弾きにされてしまうのではないか?という恐れがありました。
(なんておおげさな!なんて思えてしまいますが、当時は本当にそう思っていました^^;)
だからこそ、
漢方医の先生に偶然言われた
「僕があなたの身体の細胞だったら
嫌になる。すぐに我慢するし、
褒められても受け取らないし、
もうこの人のために頑張っても
甲斐がないから働くのやめようと思うよ。」
という言葉が一縷の望みとなりました。
これは、
もらった言葉そのままの表現です。
まるで
細胞ひとつひとつに意志があり、
一人の人間のように
機嫌も損ねてしまうんだよ、
と言わんばかりのこの表現は、
私にとって衝撃で、
この言葉にそのまま応えるような形で
自分と向き合うことをはじめました。
まさか先生も、
私が言葉をそのまま真に受けて、
身体の細胞ひとつひとつを
意識して過ごしていくなんて
予想だにしていなかったでしょうが、
気づけばそうして過ごすことが
【自己信頼力】
(自分とのパ―トナーシップ)
を高めることにつながっていました。
当時の私は、
“自分の人生を生きられていない”という自覚がありながら、
そのときの安定した生活や評価を維持していくために
【思考】でコントロールしていたので、
細胞さんたちはしっかりと感情や感覚を隠してくれていました。
「自分と向き合う」ことの必要性は感じながらも、
宗教観が根深かった当時は、
心理学を学ぶことも罪悪感に苛まれてしまいできませんでした。
どうしたらいいか分からないまま時は過ぎ、
生活に支障はないものの微熱がずっと続くようになりました。
とりあえず漢方を処方してもらうために、
漢方医の先生を訪ねました。
そこでもらったのがさきほどの言葉でした。
のちに心理学も学ぶことになりますが、
どうも私には知識でインプットしていくよりも
純粋に細胞さんたちと出会い、
そのコミュニケーションを探究していくほうが合っていたようです。
知識を得てしまう前に、
純粋に細胞さんたちと出会えてよかったと
心から思いました。
なんとかそんなシチュエーションを
多く作れないだろうか?という想いとともに
『細胞教室』にトライしています。
心理学やスピリチュアリティに出会うきっかけは、
多くの場合、限界や挫折を経験した結果として
訪れることが多く、その時点での出会いは、
「課題解決」になっているため、
どうしても純粋さや好奇心などは二の次になってしまいますよね^^;
知識や方法論ありきではなくて、
“ちょっと自分なりにやってみる”
そんな感じが性に合ってるな♪
そんな方にお一人でも多く出会っていけたらとても嬉しいです^^
ちなみに、
インナーチャイルドの存在は
ネガティブなものでもなんでもなく、
むしろポテンシャルの宝庫です。
(このことについては こちら)
—————————–
もうひとつ、
【感情】という視点から細胞さんたちに出会うと
みえてくることをご紹介しますね。
自分の感情や感覚を丁寧に扱えるようになると、
その感情たちに振り回されずに対処できるようになります。
これを【メタ認知力】や【自己認知力】といったりしますが、
自身のことを第三者的に俯瞰的に認識できることで
コミュニケーション能力が向上したり、
仕事を円滑に進められるようになると言われています。
多くのお母さんが自分の感情や感覚に鈍感なように、
「今日何が食べたい?」と聞いても、
「わからない」と答えるお子さんは少なくありません。
ところが、
『細胞教室』で
細胞さんのお話をすることで、
「細胞さんが今日、カレー食べたいって言ってる!」と教えてくれるようになることがあります。
とても些細なひとコマですが、
細胞さんたちとのコミュニケーションが
純粋な【メタ認知力】の礎になっていることを垣間見る瞬間でもあります。
自分の内側をメタ的に眺めることができるようになると、
感情に翻弄されたり、吞み込まれてしまうことが起こりにくく、
外側の現象や仕組みのことも俯瞰的に眺めやすくなります。
【身体】身体がもつ “知性” と “ちから”
続いて【身体】という視点から、
細胞さんたちと出会っていきます。
ここで少し試して頂きたいことがあります。
右の手のひらをを頭の上から頭の左側面に添えて、首の左側をぐ~っと「伸ばそう」としてみてください。
右手の力も添えて、ぐ~っと。
そして次に、
首の左側が「伸びるのを感じよう」としてみてください。
「伸ばそう」として力をいれてコントロールするよりも、
「伸びるのを感じよう」とすると力がゆるまり、結果として前者より後者のほうが首筋が伸びていませんか?
このプチ体験からわかることは、
思考による“コントロール”よりも、
身体感覚による“気づき”のほうが、
より多くをもたらしてくれるという事実です。
身体の物理的機能には注目すべき点があります。
脳の情報処理能力が2000bit/秒だとしたら、
身体の情報処理能力は4000億bit/秒ともいわれています。
つまり、
身体は脳のおよそ200万倍の情報処理能力を
もっているんですね。
そんな身体の “知性” と “ちから” について、【自己調律】の記事から引用してみます。
私たちの身体は本当にすごいんです。
思考がダメで、
身体が優秀、
ということではありません。
思考と身体では、
“やり方”がちがうんですね。
そして、
身体というもののポテンシャルが
あまりにも軽視されています。
よく、
“思考がぐるぐるしてしまうこと”
ってありますよね。
考えてもしかたのないことなのに、
何度も何度も考えてしまって
自己嫌悪になることもあります。
それは、
思考から《気づき》を得ると、
“うまくやらないと”などの焦りから、
次は“コントロールしなきゃ!”いう意識が働くからです。
思考は、
“過去の体験をベースとしたコントロール”
によって問題解決をしようとするからなんですね。
でも、
これを身体感覚にゆだねてみると
少しやり方が変わってきます。
身体には、
《知性》と《ちから》の両方が
そなわっていて、
感覚から“気づき”を得ると、
勝手にいい具合に調律してくれるんです。
そのとき感じていること、
思い浮かんだこと、などの材料を
身体感覚という【ほっとく鍋】に
放り込んでしまえば、
あとは勝手に調理してくれるんです^^
どんな料理が出来上がるのかは、
人によって、シーンによって、
パターンによってちがいます。
自分の体感が変わって、
“問題”を“問題”と感じなくなったり、
現実が実際に変わってくる、
モノや情報との出会いがもたらされる、
人とのご縁がもたらされる・・・
どんなことが起こってくるか?
それを好奇心をもって
楽しみにしてみてくださいね^^
大切なのは、
“期待”や“執着”を上回る
純粋な好奇心をもってみることです。
どうでしょう?
なんだか、
細胞さんたちとのコミュニケーションが
少しワクワクしたものになってきませんか^^
そしてここで大事なことを書き添えておきたいと思います。
身体性(ソマティック)について伝えたい文章だからこそ、
【身体感覚】こそ正義で【思考】は悪だと伝わってしまいかねません。
誤解が生じてしまう前にこんな記事を引用してみます。
ここまで、
【身体感覚】を取り入れてみることで、
人生が変化していくことについて
書いてきました。
まるで
【身体感覚】だけでうまくいく!
なんて誤解を生みかねない表現だったかも
しれません。
(ごめんなさい^^;
それは誤解です!)
あまた生存する哺乳類のなかで、
私たち人間だけに与えられた【思考】
というものを否定しかねない表現も
あったかもしれません。
けれど、
私が大事だと思っていることは、
【身体感覚】によって触れることのできた
“本質的な自分(=魂)”というものを
【思考】のちからでどれだけ体現できるか?
というところにあります。
“本質的な自分(=魂)”に
触れるだけでいいのなら、
私たち人間に【思考】が
与えられた理由が見当たらないのです。
これまでは、
【思考】の弱み
(コンフォートゾーンに留まりたいがゆえ、
“被害者意識”をもちやすくなる傾向)
につけこまれるような形で、
いろんなものごとが動いていたように思います。
それは、
国家レベルでも、
社会レベルでも、
集団レベルでも、
個人レベルでも。
思考を英語で表現すると
“Mind(マインド)”ですが、
“マインドコントロール”
という言葉に象徴されるように
その弱みにつけこまれることが
多かったように思います。
こちらの記事でも書いていたように、
“マインドコントロール”といえば宗教、
というような風潮すらありますが、
残念ながらこの一般社会にこそ
「まともな顔」をしたマインドコントロールがそこかしこに潜んでいるように感じられてなりません。
でも、
それは決して悲観的なものでもなく、
人類史の重要なプロセスなんだろうなぁ
となんとなく思うものがあります。
【思考】というものを与えられた人間が、
それをどのように生かしていくのか?
過去を冷静に振り返ったとき、
それを未来にどう変換していくのか?
これは人任せにしてはいけない
とっても大切なテーマだと感じています。
だからこそこれからは、
【身体感覚】を解放してあげることで
その【思考】の強みを発揮するときなのでは
ないかと私は勝手に考えているのです^^
組織づくりの探究をしながら、
こんな図を作っていました。
中心軸を真ん中として、
左側を思考(左脳)、
右側を身体感覚(右脳)としています。
上方が
【思考】だけで突き進むパターン、
下方が
【身体感覚】から【思考】の順で
進んでいくパターンです。
イメージからも分かるように、
【思考】だけで突き進んでいくと
身体を酷使するトップダウンの形となり、
「自分責め」や「苦行・忍耐」といった
流れを生んでしまいます。
【思考】の“弱み”が露呈してしまうんですね。
これまでの《男性性》優位な在り方です。
一方で、
【身体感覚】から【思考】の順で進むとき
身体の声を聴くというボトムアップの形となり、「ゆだねること」「楽になること」ができます。
それが個人の【自律】のスタンスを養い、
ひいては組織全体のしなやかさ(柔軟性)につながっていきます。
【思考】の“強み”が発揮されていますよね。
【身体感覚】から湧いてくる女の子の望みを、
どうやって叶えてあげようか?
それを【思考】するのが男の子の役割です。
一人ひとりのなかの《男の子》と《女の子》が仲良くできると、
パートナーシップにも、コミュニティにも調和がもたらされていきます。
内側のパートナーシップについては こちら。
これはこれから先の時代、とても大事になってくるテーマかと思います。
【スピリチュアリティ(魂)】信頼するちから
『細胞教室』とは、
“信頼する”からはじまるエビデンスのない教室です。
カウンセラーという1対1の対人支援に自己不一致感を抱き、
これまでの自分だけの体験をもっと突きつめよう!と決め、
ひとまず着地したのが『細胞教室』です。
以前の活動に不一致感を感じたのは、
カウンセラーとして、
クライアントさんに伴走し続けるのは何か違う、と思ったのと、
もうひとつは「資本主義社会」の仕組みの一端を観たことも原因のひとつです。
個人事業で提供するサービスが、
ビジネスのセオリーに則ったら たしかに売れていく。
だけどなにかがちがうという違和感でした。
人に快を与えること、
人から不快をなくすこと、
それがビジネスの根本であり、それを「愛」だと表現する人もいる。
実際にクライアントさんも喜んでくれている。
それでいいじゃないか、とも思うけど、
クライアントさんが「不快」を失ったら、私の仕事がなくなる、、
という 矛盾というか、俯瞰してこの構図を捉えたときの落胆感はわりと大きなものでした。
自分の仕事がどうなるか?という不安や心配ではなく、
前提となっている社会の仕組みに疑問がすごく湧いてきました。
私が当時のやり方(ベネフィットを示して集客する)で仕事を続けたら、
その仕組みへのAgreeを体現し続けることになる、それが嫌で新規受付をやめました。
(“Agree”とは同意する、という意味。
本当は、その仕組みに違和感があるのに、
「それでいいよ!賛成!」と言いながら活動することになってしまいます。)
この仕組みへの“Not Agree”を体現できるパラダイムはどうすれば実現できるんだろう?
(“Not Agree”とは、
直接その仕組みを攻撃することはないけど、
その仕組みを迎合しない、といった意味合いです。
あれ?あいつ反抗的ではないけど、
暗黙の了解にはしたがってないじゃん!
みたいな感じです。笑)
人に快を与えること、
人から不快をなくすこと、
それがビジネスの根本であり、
そのためにベネフィットとエビデンスの提示が必要。
これができると人が集まる。
この当然に、 なんで??という問いを続けると、
この社会の仕組みが「信じる」ということを とても難しくしているのでは?
という仮説に行き当たりました。
エビデンスがあるから、信じる。
ベネフィットがあるから、信じる。
資本主義社会の仕組みのなかで当然になってしまった価値観は、
あらゆる人、ものへの信頼を条件付のものにしてしまっているのかもしれません、
「足りていない」「欠けている」
常に潜在的にこのメッセージを受けとり続けてたら、そうなって当然ですよね。
私にとって宗教性はとても大切なテーマです。
だからこそ“愛”と同じくらい“信頼”は大切なものです。
それは特定のなにかを信じるということではなくて、
「信じる」とか「信頼する」という態度そのもののことです。
————-
このブログでずっと大切にしていることは
“人の言葉で書かない”ということです。
いろんな情報をインプットし過ぎてしまうと、
いつしか当然のように発している言葉が
“誰かの言葉”だったりすることはよくあって、
全然肚落ちしていないのに分かっているつもりになってしまったりします。
“人の言葉で書かない”を大切にすると、
答えや結果はなかなか示せません。
もしここに、答えや結果を求める方が来たら、
きっとイライラするしもどかしい気持ちが湧きあがってきます。
私は答えや結果を求めるより、
自分で考えてみること、感じてみることの楽しさをともに味わいたいと思っています。
『細胞教室』を厳しくも、優しさをもって支えてくれる
唯一の “人の言葉” があります。
哲学者・西田幾多郎の
“いまだ研究もせない前に、
まずその利益を知ろうとする好奇心ほど有害なものはない”
『細胞教室』が目指しているのは、
エビデンスがあるから信頼できる、安心して取り組める、
というこれまでの在りかたから、
エビデンスや保証、利益ありきではなく、
信頼してみようとするからこそみえてくる世界がある、
という在りかたへのパラダイムシフトです。
ベネフィットを示すことで
ものやサービスが売れる仕組みについて、
私がもったいない!と思うのは、
ベネフィットを示してしまうことで、
無限の可能性を有限にしてしまうからです。
『○○になれるよ!』
といわれるからやってみた、
そしたら本当にそうなった。
…ここで満足していいのか?!
ただやってみる、
という感覚でトライできたら、
それ以上のなにかが起こってくるかもしれないのに!
あ、これもこの社会の巧妙な仕組みなのかなぁ・・?
だってほら、このボーダーラインが下がらずに済みますよね(笑)
知識や方法論でなんとかするよりも、
自分でやってみるという余白があるほうが、
もしかしたら幸せなのかもしれません。
そんな一人ひとりの世界観が広がっていくことを
「細胞さんたちを信頼してみること」によって叶えたい。
『細胞教室』ではその種まきをしていきたいと思っています。
それでは、
次の記事では『細胞教室』でなにが育まれるのか?
ちょっとのぞいてみましょ~😊
———-
●【概念編】
⇒思考(左脳)と身体感覚(右脳)のちがい①~⑤・<最終章>
※<最終章>までの連続シリーズです。
●【本質編】
⇒ソマティック(身体性)な探究~本質編~
●このブログでは、
【パーツ心理学】にもとづいて、
身体の細胞や感情に対して
“擬人的”な表現を多く用いています。
自分と向き合ったり、
感情と距離をおくことを優しく
手伝ってくれる神経生物学的考え方です^^