実際に起こったこと

こちらの記事で、
Mind(思考)とBody(身体)が
お互いにつながっていて、
影響を与えあっている、
ということについて書きました。

そのつながりを
体感として実感できたのは、
バレエのレッスンのときでしたが、
そんな気づきがあった少し前に、
こんなことがありました。

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何度か
カウンセリングを受けてみても、
モヤモヤとした気持ちが解消されることは
ありませんでした。

むしろ
「どうしても宗教をしている人は…」とか
「長女として生まれると…」とか
少しはかするけれども、
見当違いな決めつけに戸惑うだけで
混乱は深まりました。

だんだんと
信仰心があることでのしがらみや
しんどさを感じている自分に
罪悪感を感じるようにもなっていました。

そして
自然な流れで
自分でどうにかしてみることになりました。

身体の60兆個の細胞たちに、
「あなたのことを知りたいと思っている」
「いつも本当にありがとう」
そんな気持ちを向けて、
日々を過ごしました。

本当に純粋な気持ちで(笑)
もはや変態です。
でもこの変態レベルのことを
私は真剣に探究してしまうのです。

“嬉しい気持ち”になるとき、
胸のあたりがあったかくなるなあ。
“悲しい気持ち”になるとき、
みぞおちあたりにきゅうっとした
感じがするなあ。
そんなふうに、身体が伝えてくれる
“感じ”に寄り添っていきました。

大人になるにつれて
感じないようにしてきた
感情たちが溢れだし、その感情を
きちんと受け容れていくことで
少しずつ自分というものが分かりだして
きた頃のことです。

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忙しい日々が続き、
ちょっと疲れていたので、
身体を休ませてあげようと思い、
カフェでぼんやりとお茶を
飲んでいました。

すると、
急に涙が溢れだしてきました。
なんだろう?
と思いながらも、
このままにしてみよう
と泣き続けていると、

“自分に蹴りつけられている自分”
のすがたが頭のなかにぼんやり浮かんできました。

“自分を蹴りつけている自分”ではなく
“自分に蹴りつけられている自分”です。

イメージとはいえ、
これを直視し続けることは
なかなか抵抗がありました。

私はヒールのある靴が好きで、
普段から高めのヒールを履いています。

このイメージが湧いてきたときも
私はそのヒールを履いていて、
自分のことを蹴りつけていました。

ふしぎと、
どんな表情で蹴りつけているのか、
どんな表情で蹴りつけられているのか、
は見えませんでした。

私の場合、
大きなきっかけがあったわけではなく、
懺悔という考え方であったり、
正しさにしがみついていくために、
自然と無意識にそうした【自己否定】を
していたのだと思います。

だからこそ、
蹴りつける自分にも悪意は感じられず、
蹴りつけられる自分も抵抗する様子は
ありませんでした。

でも思い返せば、
思いあたるふしはありました。

たとえば、
だれかが悩んでいるとき、
その苦しみに寄り添って
“本当は夢があったのに
それを諦めて、
こうして頑張ってるなんてえらいな・・”
なんて思えるのに、
同じようなことを乗り越えていても、
自分に対しては、
“あなたは仕方ないじゃない。
過去の罪があるんだもん。
こうして安穏に暮らせているだけでも
幸せだと思いなさいよ!”

本気でそう思っていました。
それが正しい在り方だと思い込んでもいました。

仏教の言葉でいう、
解脱とか懺悔とか
そうあらねばと思うあまり、
自分の考えや望みというものを無視して
そう思えることが正しいのだと思っていました。

“自分に蹴りつけられている自分”のすがた
を見せつけられ、涙が止まりませんでした。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
と心で謝ってみても許されないような
そんな気持ちでした。

でも、
自分のことをちゃんと知りたい、
なぜかわからないけど
ここを乗り越えてみたい。
という強い思いがあったので
ごまかしてやり過ごそうとは
思いませんでした。

気持ちが落ち着いてくると、
そんな自分がいたんだ、
ということをただ眺めることが
できるようになってきました。

そして、
心から、
そういう自分がいたんだ、
ということを認めることができました。

振り返ると、
“あ、向き合うってこういうことか。
もっとこう、
苦しみを味わいつくすみたいな、
そんなことだと思ってた”
というなんだか拍子抜けしたような
気持ちが湧いていました。

これは実は、
身体の知性によって
もたらされたものでした。

“身体の感覚に意識を向けてみる”
ただそれだけで「気づき」が生まれ、
その「気づき」が生まれることで、
身体は勝手に“自己調整”をしてくれます。

過去に身につけた、
そのときには必要だった価値観、
もしくは不安や弱さというものは
身体の“緊張”として今の私たちのなかに
保存されます。

それが、
身体に意識を向けて、
少しずつ身体が楽になっていくだけで
その価値観を手放していってくれます。

楽になればなるほど、
ただそれだけで・・・
すごいことですよね。

身体は、
“知性”と“パワー”を兼ね備えています。

カフェで一人泣き続けるすがたに
店員さんはさぞかし困惑されただろう
と今さらながら恥ずかしく思います(笑)

その日からしばらく、
正座をしようとすると過呼吸になって、
手足のしびれがおさまらなくなったり、
誰にも責められていないのに、
母に「どうせ信心深くない私を残念に
思ってるんでしょ?でも仕方ないじゃん!」
と大声で泣きわめいたりする日が
続きました。

まるで自分ではないようでした。
普段から泣くことがあまりないので、
自分でも戸惑いました。

とても家族を困らせました。

父は本当にニュートラルな人なので
冷静に話をしてくれました。

父に言われた
「誰がそんなこと言ったんだ?」
という言葉は、まさしく図星で、
誰にもそんなことは言われていませんでした。

私が勝手に、
理解してもらえないだろうとか、
自分がおかしいんだと思い込んでいただけなのです。

たとえば、信仰内での
女性の幸せな正しい生き方とは、
「信仰内の縁談で結婚し、
ともに修行していくこと」
でした。

外側の「正しさ」に
しがみついていた頃の私は、
本当はそれがフィットしていないのに、
そうしないと不幸になる、
家族に迷惑をかけることになる、
と本気で考えていました。

その裏で、
責任から逃げてもいました。
外側の「正しさ」に沿っていれば、
なにかあったとき言い訳できてしまいます。

でも
内側の「自分自身」に
しっかりとちからがみなぎってくると、
自分はどう思うのか、どう考えるのか、
それを優先させる責任感が芽生えていました。

同じ宗派のなかで
家庭をきずくことができると
たしかに円滑にいきやすく、
それが幸せなんだよ、
という風潮がうまれるのも
よく理解できます。

実際に多くの幸せそうなご夫婦も
たくさん見てきました。
下手に恋愛感情や依存心だけで
くっついてしまうよりもメリットすら
あるような気がします。

でも、それを選ぶかどうかは自分で
決めなければいけませんよね。

私には、
「結婚」や「修行」を目的にした
結婚は合っていませんでした。

形は単なる結果論であって、
お互いが目指すものに向かって
伴走していけるような、
そんな関係性が築けることが
私にとっての理想だなと思いました。

そのためには、今、
私が自分の人生をしっかりと
踏みだしていくこと。

それがもっとも
大切なことでした。

あの頃の私が、
だれかと一緒になったって、
私が私らしく生きていないのだから、
相手の人がその人らしく、
ポテンシャルを発揮していくことなんて
きっとできませんでした。

自分勝手に振り切るのではなく、
家族には何度も何度も伝えました。
最初から受け容れてもらうことは
できませんでした。

当然ですよね。

両親だって、
2代目としてちゃんとお役目を果たし、
私もその生き方を選んでいたのに、
突然ちがうといいだして。

当時の私は、
私の意見と、両親の意見が同じである
ことが自立だと勘違いをしていて、
理解してもらえないことを悲観して
いました。

しかし、
それが依存であったことに
途中で気づきました。
私の意見があって、両親の意見がある。
それを認めあって、ともに在るということが
本当の自立であることにやっと
気づくことができました。

そのことに気づけたとき、
“もっと自分の人生に責任をもとう、
両親を大切に想うならなおさらだ”
と、心から思いました。

そして、
自分の気持ちを素直に
きちんと伝えているうちに、
理解してもらえるどころか、
応援すらしてもらえるようになりました。

この膿みだしのような
デトックスのような日々が終わると、
今まで感じたことのなかったような
“一体感”を感じることができるように
なっていました。

小さい頃、
自分の世界を思いっきり楽しんで、
大切にできていたときの感覚。

自分にうそをついていない感覚。
きちんと一致している感覚です。
身体によけいな緊張感や
こわばりがなく、すーっと軽い
感じがするのです。

身体は軽いのに、とても
パワフルでエネルギッシュな
自分がいました。

そして、
11年間勤めた職場を転職、
引っ越し、新しい活動、
人間関係も…
めまぐるしく環境が変わっていきました。

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【自己受容】→【自己肯定】のプロセス

この私の体験には、
“自分らしさ”
に近づいていくための
大切なプロセスが含まれています。

ひとつめが
【自己受容】

そして
ふたつめが
【自己肯定】です。

【自己受容】
  ↓   
【自己肯定】
このサイクルが繰り返されることで、
“自分らしさ”に近づき、
本来もっているポテンシャルが
発揮されるようになっていきます。

【自己受容】と【自己肯定】
を時間軸で考えると、
分かりやすいかもしれません。

【自己受容】とは、
〇〇したかった、
〇〇して欲しかった、
という過去の欲求です。

それがでてきたとき、
それを認めて受け容れてあげること。

そんな自分がいたんだ!

と知ってあげるだけでも充分です。

これが【自己受容】です。

私の場合だと、
自分が自分を蹴りつけていたこと、
それをまず認めてあげる。

そして、
蹴りつけるものつらかったよね、
優しくされたかったよね、
と受け容れてあげること。

ここで
“蹴りつけていた自分”を責めるのは
ちょっとちがいます。

ただ、
そういう自分がいたんだ、と
どっちの自分も認めてあげる。

もしも、
そんな自分を責めてしまいそうになるなら、
“責めてしまいそうになる自分”を
認めてあげることが大切です。

どんな自分もOK♪
が【自己受容】のスタンスです。

そして
【自己肯定】とは、
〇〇したい、
〇〇して欲しい、
という未来への欲求です。
これは本来の自分の望みといっても
いいかもしれませんね。

大事なことは、
【自己肯定】のエッセンスは
【自己受容】のエッセンスの
下に埋もれている、
ということです。

だから、
【自己肯定】ばかり満たそうとしても、
その上にある
【自己受容】のエッセンスたちに
気づかないままだと、
協力してもらえなかったり、
足をひっぱられてしまったり、
ちょっと遠回りになってしまいます。

【自己受容】があって
【自己肯定】のエッセンスたちに
辿りつけるんですね^^

【自己肯定】のエッセンスたちに
辿りついたときには、
【自己受容】のエッセンスたちが
もう味方になってくれているので、
パワーアップした自分で、
その望みにまっすぐに進んでいけるようになります。

私もあのとき、
“自分を蹴りつける自分”と
“自分に蹴りつけられる自分”が見つかって、
しずかにその存在を認めて、
ごめんねと謝ってみて、
ただそれだけで二人が味方になってくれました^^

二人ともとってもタフなので、
私はとても助かっています。

“自分らしく生きる”が語られるとき、
その文脈はなんとなくポジティブ色が
強かったり、やたら明るかったりします。

本当は
ポジティブもネガティブもなくて、
“ただそうなんだ”
ということを認めるだけなんです。

自分と向き合うってなんだか怖い。
それが嫌だから、
身体にちからをいれて
なにかに認めてもらうために
毎日頑張っているのに、
向き合うなんてしまったら、
そんな今までの自分がすべて崩壊してしまう…。

いわゆる
潜在意識というものは、
私たちを危険から守るために
変化することを拒もうとしてくれます。

向き合いたくない自分がでてきたとき、
ふっと目をそらしたくなったり、
ざわざわとしたものを感じるのは、
そんな潜在意識のしわざです。

でも、
ひとたび向き合ってしまえば、
そこは宝の宝庫であることに
気づいていきます。

自分のポテンシャルというものが、
想像をはるかに越えていたことにも
気づいていけるようになっていきます。

だからこそ、
“自分らしく生きる”が語られるとき、
その表現はポジティブになっていく
のかもしれませんね^^

 

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Q.「ソマティック(身体性)とは?」

●【概念編】
思考(左脳)と身体感覚(右脳)のちがい①~⑤・<最終章>
※<最終章>までの連続シリーズです。

●【本質編】
ソマティック(身体性)な探究~本質編~

●このブログでは、
【パーツ心理学】にもとづいて、
身体の細胞や感情に対して
“擬人的”な表現を多く用いています。
自分と向き合ったり、
感情と距離をおくことを優しく
手伝ってくれる神経生物学的な考え方です^^