-Contents-
『努力』の必要性について
では、
前回の記事に引き続きまして、
今回は『努力』の必要性について
思考(左脳的)と身体感覚(右脳的)の
ちがいについて書いてみたいと思います^^
前回の記事でお話していたように、
【思考】の方法は“コントロール”なので、
そのプロセスには『努力』の感覚が
強く感じられるかもしれません。
“コントロール”のためには、
ある程度の強制力が必要ですよね。
ところが、
【身体感覚】の“最適化”によって
気づきを得ていくと、
『努力』の感覚がなくなっていくんです。
でも、
『努力』というか行動する量は
あまり変わりません。
むしろ増えていくこともありますが、
そのプロセスをわざわざ『努力』とは思わなくなっていくんですね。
【思考】
“愛されるため”の行動だから
『努力』が必要。
(⇒動機が外にあるので
『努力』が目的になっていきます)
【身体感覚】
“愛するため”の行動だから
『努力』を感じない。
(⇒動機が自分にあるので
『努力』は手段でしかありません)
両者のちがいをひと言で表現すると
こんな感じでしょうか。
“違和感”と向き合ってみる
とても抽象的な表現になってしまうので
このことについて、
私のことを例に書いてみますね^^
私は、
“宗教肯定派カウンセラー”として
活動をはじめました。
当初はもちろん、この活動が
【身体感覚】によりもたらされた
本質的な私の望みであったので、
そのプロセスも『努力』というより
湧きだすものを形にしていくという尊いものでした。
その活動のなかでクライアントさんとの関わりを通して【ソマティック(身体性)】の可能性にあらためて気づかされることになりました。
宗教のお悩みについてのカウンセリング、
という痛みの克服だけでなく、「身体」をもつすべての方に、その「身体」を通した『探究』についてを発信できたらどうだろう?
このことが見えてきたとき、
本当に自分が辿り着きたかった場所が
“そこ”だったのだと感じました。
大きく世界全体が変わりゆこうと
するなかで一人ひとりの「ニューノーマル」
を突然求められる事態となりました。
この状況であわてふためくことなく
まずするべきことは
「自分と向き合うこと」であり、
“自分らしさ”に近づいていくことが
安心感と心の平穏をもたらします。
私たちの、
この「身体」がもつパワーを信頼して、
自分と向き合える人が増えていけば…
ふとそんなビジョンを描いたとき、
自分の専門性や肩書に固執しているときではないと目の覚める思いがしました。
そして、そこに辿り着けたのは
“宗教肯定派カウンセラー”として活動し、
【信仰心】というリソースをもった
お客様と関わることができたからでした。
ここで方向性を変えるにしても
まったく後悔のない流れでした。
しかし、
そのことを感じつつあったとき、
すぐに行動に移せたかというと
そうではありませんでした。
こちらの記事で書いていたように、
【思考】からすると、そのシフトチェンジは不利なように思われたからです。
クライアントさんからも
たびたびお声を頂いていたし、
私自身も“モヤモヤ”は感じていました。
私の場合は“モヤモヤ”を感じるとき、
みぞおちあたりにあるタラコのようなものに釣り針が引っ掛かっているような感覚がします(笑)

活動の方向性についても、
やはりずいぶん前から
その“タラコに引っ掛かった釣り針”を感じていました。
でも、
「なかったこと」にしていました。
これだけ【身体感覚】について
発信しているのに、
思いっきりその感覚を
無視していたんですね。
“(違和感を無視して)活動を続ける”
というのは、【思考】の判断です。
“(違和感を無視して)活動を続ける”
というのは、
私にとって慣れ親しんだ生存戦略でした。
自分の欲求や本音にフタをして、
コツコツ『努力』を続けることは
私にとって“愛されるため”の定番の方法でした。
週一で作ってしまう定番レシピだったんですね。
お客様に“愛されたい”
お世話になった人にも“愛されたい”
周りの人たちにも“愛されたい”
お天道様にも“愛されたい”(笑)
私は“愛されたい”がために
コンセプトを変えることなく過ごしていたので、そのプロセスはだんだんと『努力』を感じるものになっていきました。
本質的なところからズレたところで
活動を続けていても、
自分のなかから湧いてくるものがないので、
記事を書くにも捻りだす必要がありました。
それでも、
そこを耐えてコツコツ続けていく…。
そのうち、
Word pressのトラブルで記事がアップできなくなりました。
それにもめげず、
復旧作業を進めながらストックを書き溜めました。
————
なんだか、すっごく頑張ってる感じが
しませんか?
認められ、評価されるにふさわしい
姿勢のように思えませんか?
少なくとも私は、
無意識のうちにこうした姿勢でいることで、
“愛されよう”としていたんですね^^;
【思考】のやり方で突き進んでしまうと、
手段と目的のすり替えが無意識のうちに
起こってしまいます。
この時点で私にとって、もはや
《コツコツ努力を続けていくこと》
が活動の目的になっていました。
この【思考】のトリックは
実に巧妙な罠だなぁ、
と引っ掛かっておきながら思います(笑)
よくある【思考】のトリックに
こんなものがあります。
「“時間がない”
“お金がない”
“体力がない”は言い訳だよ」
という言葉は【思考】に刺さりやすいものです。
その言葉によって、
なにか行動を起こそう!
としてしまうことがあれば、
一度【身体感覚】の声を聴いてみてもいいかもしれません。
本当にそのことに時間やお金や体力を使いたい?
「本気で変わりたいと思ってないんだ」
という評価をされたくないからと
(=相手から“愛される”ために)、
本質的な望みからズレたところで『努力』をすることにもなりかねません。
“本質的な望みを叶えること”
が目的であって、
お金をつかうこと、
時間をつかうこと、
体力をつかうこと、
は手段に過ぎませんよね。
本質的な望みの延長線上で
大切なものをつかっていきたいものです。
なにより相手の方も本気だからこそ、
深いところからの答えで応えていきたいですよね^^
———–
さて、
そんなふうにアップできない記事を
ストックし続けるうち、
“タラコに引っ掛かった釣り針”は
その食い込みを深めていきます。
そして私は、
「はっ!」と気づきます。
【身体感覚】について
発信しようとしている人間が、
【身体感覚】を無視している、
という恐ろしくダサい状況に自分がいることに…(恥
そんなことで、
ようやく私は
“タラコに引っ掛かった釣り針”
とちゃんと向き合うことになったのです。
【愛されること】ではなく、
自分を【愛すること】を選びました。
そしてここが一番のポイント。
【身体感覚】の声に耳を傾けるとき
『努力』は一切いりません。
『努力』しないことが一番のコツだと
いっても過言ではありません。
もしも“気づき”がもたらされて、
よいしょっと腰をあげる必要がでてきたら
そのときに『努力』してください。
身体はとにかくゆったり。
リラックスです。
みぞおちあたりで感じる
“モヤモヤ”とした感覚。
覚悟を決めて、
そこをじっくり感じてみます。
どうすれば、
その釣り針が抜けてくれて、
「細胞たち」が楽になれるのか。
ここまできたら、
「細胞たち」への“愛”がものを言います。
私はずいぶん
「細胞たち」と仲良くやっているので、
こうした“愛”の感覚を向けてあげるだけで
わりとわかりやすく応えてくれます^^
(言葉にすると、
なかなかにヤバい奴ですね~笑
でもいいんです。
『探究』ってこういうものです。)
身体が動くままに、
思考をなるべく鎮めて
淡々と日々を過ごします。
「これはちがうかも…」
と感じることをやらないでおく。
どんなコンセプトを想像したとき、
釣り針がすっと抜ける感じがするか?
を感じてみる。
これは方法やメソッドではなく、
身体が動くままの応えです。
そしてふと湧いてきて辿りついたのが
「身体」をもつすべての方に、
その「身体」を通した『探究』をお伝えすること。一人ひとりが“自分らしさ”に近づく世界を目指すこと。
この言葉をふんわりとイメージしたとき、
“これだ”という感覚とともにお腹に
ぐんと力がはいるのを感じました。
いわゆる「緊張感や力み」とはちがう、
腑に落ちる感覚…皆さんも感じたこと
ないでしょうか^^
———–
このように、
まずは自分を【愛すること】をしました。
【身体感覚】に耳を傾けて、
思考を鎮めて身体をゆったりと。
そうすると
“本質的な望み”が見えてきます。
そしてそんな“欲求”を認めてあげます。
(これも方法論というよりは、
自分とのパートナーシップの
築き方によってちがいがあると思います。
それこそが『探究』ですよね^^)
【思考】からしてみれば、
「あ~ぁ」といったところなんでしょうが、
【身体感覚】がもたらす“気づき”をもとに
行動すると不思議なほど後悔がないんですね。
本質的な私たち、
つまり“魂”なりの流れというものが
どうやら存在しているのだと私は考えています。
その流れに乗れば後悔することは一切ない、
と私たちはどこかで分かっているような気がします。
でも、
流れに乗ることって案外怖いものですよね。
“委ねる”ってとっても勇気がいることです。
それでも、
この勇気が“自分らしさ”への大きな一歩につながっていきます。
その勇気は、
依存でも自立でもない
《自律》の在りかたに
慣れてくると自然と湧いてくるもののように感じます。
【身体感覚】の方法にゆだねてみて変わったこと
そんなこんなで
自分の本質的な望みに辿りつきました。
あれだけ記事を書くにも『努力』が
必要だったのに…湧いてくるんです、次々と。
がんばって書き溜めた記事も
ほぼリライトすることになりました。
でも、
それすら“しんどさ”はありませんでした。
【ソマティック(身体性)】というものを
このブログで表現することも目的のひとつだったので、湧いてくるままに書きました。
そして、このプロセスでは、
やっぱり【思考】のちからが発揮されます。
どう表現してみよう?
色は?言葉は?イラストは?
記事の順序は?
ちゃんと【思考】さん大活躍です♡
(このことを、
“内側のパートナーシップ”の考え方で
みてみると分かりやすくなります。
《女の子(身体感覚)》の願いを
《男の子(思考)》が叶えてあげる
イメージです。)
自分で書いておきながら、
“なに言ってんだ?”なこともありますが、
私の深いところから湧きでてきていることは
確信しているのでその点については【思考】を鎮めて書き続けています。
【思考】のままに進んでいたときと、
その行動量や作業量は変わりません。
むしろ増えたかもしれません。
人から見ればなにも変わっていないように見えるかもしれません。
でも、私にとっては全然ちがいます。
今の私の目的は、
《一人ひとりが“自分らしさ”に近づく世界を目指すこと》です。
そのための手段が
《コツコツ努力を続けていくこと》です。
これが本来の目的と手段の在りかたですよね^^
さて、
前回の記事では、
“自分に愛を与えること”が
“他者に愛を与えること”に
つながっていく、
ということを書きました。
今回のケースでは、
どうだったのでしょうか?
それは、
記事を書くときの『意識』にあらわれていました。
【思考】のままに進んでいたとき、
“どういった表現が読んでくださる人に響くのか?”という意識をもっていました。
【身体感覚】のままに進んでみたとき、
“私のこの深いところから湧いてくるものが
読んでくださる人の心にストンとはいるような表現は?”という意識になっていました。
言葉ではこのちがいが伝わりきらないかも
しれないのですが、意識の在りかたはまったく別モノです。
前者では、“愛されるためには?”ばかり考えていました。
後者では、“愛を表現するためには?”という考え方に変わっていました。
この変化は、
“自分から湧いてくるものをそのまま表現する”
という【自分への愛】によって生まれたものです。
“自分に愛を与えること”が
“他者に愛を与えること”に
つながっていく、
ということがやっぱり起こってくるんですね^^