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もたらされるもの|【答えや結果】と【気づき】
それでは、
前回の記事に引き続き、
今回は『もたらされるもの』について、
思考(左脳的)と身体感覚(右脳的)の
ちがいについて書いてみたいと思います。
ひと言で表現してみると、
【思考】がもたらしてくれるものは、
《答えや結果》であり、
【身体感覚】がもたらしてくれるものは、
《気づき》であると言えます。
この表現だけだと、
「なんだ~結果がでるなら
このまま思考だけでいいじゃないか」とか
「“気づき”なんて、そんなふんわりしたもの
老後でいいよ」なんて印象をもたれるかも
しれませんね。
なんだかやりがいないなぁなんて
思わないでくださいね(笑)
こちらの記事でも触れていたように、
これまで【思考】だけで
突き進んできてしまったところを、
【身体感覚】を解放してあげて、
【身体感覚】⇒【思考】の順に
してあげることが重要なんです。
つまり、
最後にはちゃんと《答えや結果》に
辿りつくということなんですね。
同じ《答えや結果》でも、
【思考】だけで辿りつくものと、
【身体感覚⇒思考】で辿りつくものには
雲泥の差があります。
【思考】だけで辿りついたものには
安心感がありません。
【身体感覚⇒思考】で辿りつくものには
安心感があります。
前者では、
辿りついた《答えや結果》を維持しなければ・・・
という“愛されなくなる恐れ”がもとになった
強迫観念につきまとわれることになります。
ラットレースのような状態ですね。
後者では、
辿りついた《答えや結果》は、
“愛されるため”の必要条件ではなく、
あくまでも【愛すること】⇔【愛されること】の循環のなかで生まれる副産物であるということが腑に落ちています。
だからその先に、、
さらなる拡大と発展を
みいだすことができるんですね。
いかがでしょうか?
【思考】だけでいくよりも、
【身体感覚】⇒【思考】でやってみることの
魅力が少しお伝えできているでしょか^^
これまで【思考】優位で頑張ってきた人ほど
【身体感覚】を解放すると飛躍しやすい傾向にあります。
【身体感覚】で本質的な望みに気づけたとき、それを実行・実践する力をすでに持っているからなんです。
最近では、
『努力』や『がんばり』が軽視されやすい傾向にあります。
これには少し語弊があるように感じます。
前回の記事でも書いていたように、
この傾向が示していることは、
“愛されるため”の『努力』や『がんばり』はいらないよ、
という意味であって、
『努力』や『がんばり』が目的になっていると本末転倒だよ、
ということなんですね。
きちんと自分と向き合って、
そのときに湧いてきた本質的な望みのために
『努力』や『がんばり』が必要ならば、
そのときはもちろん発揮されるべき力です。
《気づき》とは?
【思考】によってもたらされる
《答えや結果》とは、
挑戦に対する勝ち負けであったり、
成績や業績や収入であったり、
周りからの評判や評価であったり、
言葉の通りに《答えや結果》ですよね。
それでは、
【身体感覚】よってもたらされる
《気づき》って一体なんでしょう?
それは人によって、シーンによっても
表現は変わってくるかと思いますが、
✓ 本質的な自分(魂)の本音
✓ 本来のポテンシャル
✓ インスピレーション
✓ 世界を反転させる新たな視点
こんな表現がふさわしいでしょうか。
ちょっとおおげさに表現していますが、
「ふとそんな気がする」というような
ほんの些細なことも含まれます。
インスピレーションとは、
いわゆる直感のように用いられることが
多い表現ですが、言葉を分解してみると、
イン(取り込む)+スピロ(霊性)となります。
スピロ(霊性)とは、
いわゆる邪気とか悪霊というものではなく、
宇宙の叡智のようなものです。
こちらの記事で、
【思考】のやり方で出来上がった料理は、
《想定内》のものであることが多く、
【身体感覚】のやり方で出来上がった料理は
《想定外》のものであることが多い、
とお伝えしていました。
その理由がここにあります。
【身体感覚】を通して自分と向き合うと、
もたらされるインスピレーションには、
【思考】が材料にしている、
過去の経験から得たデータだけでなく、
先人たちの智慧や本来的な自分からの智慧、
さらには今ともに生きている他の人の智慧も
含まれてくるのです。
その叡智の源は、
宇宙とも、
集合的無意識とも呼ばれるものです。
こちらの記事でも触れていた
“集合的無意識”には、
ありとあらゆる情報や智慧が
存在しています。
身近なたとえでお伝えしてみますね。
たとえば、
『正社員で働くべきだ』
『お母さんなんだから3食つくるべきだ』
こんな信念をもっているとします。
自分一人の頭でぐるぐると
考えあぐねていても、
そうした信念というものは
とても強固なのでなかなか妙案は浮かびません。
けれどこの広い世界には、
『バイト掛け持ちで気楽にやりたい』
『夕ご飯は毎日デリバリー』
こんな信念を当然のようにもっている人
だっているわけです。
【身体感覚】を大切にして、
自分のなかにふわっと湧いてくるものに
フタをせず過ごしていると・・・。
“べつに正社員で働かなくたって
いいじゃないか。
コスパを考えても別の方法のほうがいいかも”
“2食は手作りできてるじゃない。
夕食くらい好きなもの頼んで私も楽しもう♪”
そんな感じで、
頑なだと思っていた信念たちが柔軟に
形を変えていくのです。
本当に不思議なことなのですが、
あまたある叡智のなかで
“今の自分”にピッタリなものを、
魂は伝えてくれるんです。
こんな感じで
ふっと湧いてくることもあるし、
何気なく人から言われたときに
すっと受けいれることができる、
ということもあります。
強固な信念に対峙するような力みもなく、
ごく自然な形で^^
—————
“私たちは、一人で生きているのではない。
生かされているんだ。”
という、宗教的でありながら普遍的な概念。
私にとってこの言葉はトラウマでした。
自分を非力化させる言葉でした。
“私たちは、一人で生きているのではない。
生かされているんだ。
(だから自分の考えや意志で生きてはいけない)”
と脳内変換されていました。
でも、『自分の人生』を生きるようになって
私のなかでこの言葉の意味合いが変わりました。
私たちが、
本質的な自分(魂)に触れたとき、
同時にこの宇宙の大いなるパワーも
受けとっているんだよ、
というこの言葉の新しい側面に出会うことができたのです^^
“ゆだねる”ということ
【ソマティック(身体性)】という切り口で、
自分自身や人生と向きあっていると
気づかされることがあります。
人やもの、環境には
タイミングやご縁があるけれど、
この宇宙だけは絶対的に味方なのだ、
という事実です。
私が
“宗教肯定派カウンセラー”として、
【信仰心】というリソースをもった
クライアント様と関わるなかで、
《身体性》と《宗教性》の相性がとてもいいことに気づきました。
それがなぜなのか・・・?
最初はわかりませんでした。
しかしクライアント様とともに
『探究』という作業をするなかで、
ある共通項があることに気づきました。
クライアント様の多くが、
その宗教体験から“ゆだねる”という
感覚をすでに体感レベルで知っていました。
ご相談当初は、
“ゆだねる”=自分の思うようにはいかない、
宗教の教えの通りに生きなければいけない。
という過去の私と同じような信念に
すり替わってしまっています。
でも少しずつ、
リソースを膨らませながら
「自分と向き合う」というところを
丁寧にやっていきます。
自分とのパートナーシップが
築かれていくと、
それは自己信頼力となり、
つまり「自分を信じること」につながります。
そのことが自然と、
持ち前の【信仰心】を発揮することにつながり、“ゆだねる”ことを軽やかにしてくれました。
「自分を信じてみようとする」
という在りようだけでも充分でした。
こちらの記事でも触れていたように、
時代の変化とともに“人体観”も変化しています。
科学がこれだけ進歩した現代でも、
まだまだたくさんの不思議にあふれた
私たちの身体というものは、
ときにその深淵さから
《小宇宙》と表現されることもあります。
仏教のなかでも特に真言密教は、
身体が《小宇宙》であることを前提とした教えです。
自身のなかに
《小宇宙》を認めることができると、
宇宙というものが自分の拡大の果てなのだと
気づくことになっていくので、
すーっと“ゆだねる”ことができるようになります。
私の想像にすぎないのですが、
本質的な私たち(魂)はきっと、
いつもスムーズに前進しています。
本当は、
私たちはただ安心して人生を謳歌すれば
いいんだと思います。
一見トラブルと思えるようなときも
きっとスムーズに進んでいるんだと思います。
けれど、
【思考】という左脳的な働きが、
それをわざわざジャッジしてくれるので、
“恐れや不安”を大きく感じるようになっています^^;
こちらの記事でも触れていたように、
ものごとには、
“フォーカスし続けると膨張する”
という性質があるので、
その恐れや不安は大きくなっていきます。
そうすると「外側」のなにかに縋りたくなる。
評価だったり実績、人脈や方法論など
いろいろありますよね。
それが《期待》や《執着》の原因となり、
“ゆだねる”ことへのブレーキとなります。
『結果が得られると保証があるから』
“ゆだねる”
『宇宙(自分)への信頼があるから』
“ゆだねる”
前者は、
顕在的にアクセルを踏んでいるようで、
潜在的にブレーキを踏んでいます。
後者は、
顕在的にブレーキを踏んでいるようで、
潜在的にアクセルを踏んでいます。
自分が本当に辿り着きたい《答えや結果》を得るのは
どちらでしょうか?
そんなふうに問われたら、
きっと【思考】が突き進んで、
“愛されるため”に宇宙を信じよう!としますよね。
でもその時点ですでにブレーキを踏んでいます。
まずは自分を信じること、愛すること。
厳密に表現すると、
自分を100%信じられている、
自分を100%愛せている、
という完璧な状態が
“ゆだねる”ことを可能にするのではありません。
自分を信じてみようとする。
自分を愛してみようとする。
その在りようや態度だけで
充分なんです。
このことについてはまた記事を書いてみたいと思います。
こんな表現をしておきながら、
私はスピリチュアルなことに詳しいわけでもなく、
夜空を見上げても分かる星座はオリオン座だけです(笑)
けれど、
【身体感覚】によって
その“宇宙”のなんたるかに気づかされる、
という事実はとても興味深いものがありますよね。
ちょっと長くなってしまうので、
『もたらされるもの』について
記事をわけてもう少し書いてみますね^^