“なぜ生きるのか?”という命題

ここまでの記事で、
思考(左脳)と身体感覚(右脳)のちがいについて書いてきました。

“なぜ生きるのか?”
という人類共通の命題がありますが、
人々はその答えを求め、たびたび宗教にも
可能性を見いだしてきました。

では、【ソマティック(身体性)】
という切り口でこの命題と
向きあってみるとどんなことが
見えてくるのでしょうか?

そもそも“身体”とはなんでしょう?
ソマティック(身体性)の領域では、
こんな表現をされることがあります。

✓ 心やのいれもの
✓ 感情や感覚を伝えてくれるもの
✓  心と思考の橋渡し

それでは、
身体が伝えてくれる“感情や感覚”ってなんでしょう?

“いい感じ”、“モヤモヤする”などの感覚、
つまりFeelingと表現されるものですね。

“悲しい”、“嬉しい”、
“腹がたつ”などの感情、
つまりEmotionと表現されるものですね。

視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚
などの五感や、
空腹・吐き気・渇きや尿意などの
気分に影響をあたえる内臓感覚や
皮膚感覚を伝えてくれる
感覚器官や神経伝達物質が、
それらのFeelingやEmotionを私たちに
伝えてくれています。

私たちの全身を覆う皮膚が、
その皮膚感覚を通して
感覚を伝えてくれなければ、
私たちの全身を巡る神経が
その感覚神経を通して
感覚を伝えてくれなければ、
私たちは自身の存在をここに
認識することはできません。

〇〇器官がどうだとか、
〇〇神経がどうだとか、
小難しく考えることはありません。

この世界と“自分”の境界線を生みだし、
自己の存在を認識させてくれているのは
まぎれもなく“身体”である
ということが見えてきます^^

つまり
“魂”がこの世界に存在し得る理由は、
“身体”によって成立しているとも表現できます。

そして逆説的に考えると、
私たちは、
“あらゆることを【感じるため】に生きている”というひとつの答えを見いだしてもいいのではないかと思います。

前回の記事でも、
苦しみの本質が“体感”であるという
視点をもってみると、
目の前の事実にただ絶望することなく
前に進んでみようと思えるのではないか
ということを書きました。

私たちが生きていることの意味が、
この世界がいかに厳しいものかを
知るためでもなく、
ただ“あらゆることを感じるため”
にあるんだ‥‥
と右脳的にぼんやり思ってみると、
なんとなく道が拓けてくるような、
そんな気がします。

そして、
そのさきにでてくる問いは、
“じゃあ私はどんなことを感じたいのだろう?”というところですよね^^

 

————

これはあくまでも、
私自身の個人的な考えなのですが、
スピリチュアリティとは、
“人生そのもののこと”です。

どう感じ(身体)、
どう考え(思考)、
どう生きていくのか(魂)。

ただそれだけのことだと思っています。

“感じて”“考えて”はじめて、
その人の真実になりうるのだと考えています。

だから『探究』なんですね^^

とくに今、
いろんなところから
「実はこんな真実があるんだよ」
といった情報が飛び込んできます。

だからこそ気をつけたいのが、
聞いて知ったことはその時点では“真実”
にはなり得ない、ということです。

それよりも少し俯瞰的に
感じてみる、考えてみる

そうやって
身体を緩やかに日々を過ごしていると、
目の前で起こるいろいろなことや
世の中の仕組みについて
俯瞰して眺めることができるように
なっていきます。

そのときにふと感じる
「なんだか〇〇な感じがするな~」
と感じ、自分で考えて出した結論が
自分にとって真実だとしていくと、
歪みのない視点を保ちやすくなるのではないかと考えています^^

【情報】はときに対立を生みだしてしまいます。

情報に反射的に反応してしまうとき、
身体はこわばって、思考には余裕がありません

身体をゆるめて、思考を落ち着かせていれば
情報に振り回されてしまうこともなくなっていきます。

私たちに求められていることは、
これまでのような善悪の判断ではないように感じます。

これまでの世界の在り方を
あらためて俯瞰的に眺めてみると、
なかなかにあくどいなぁと思うところも正直あります^^;

このコロナ禍により、
その違和感が多くの人を立ち止まらせてくれました。

ただの思考停止に陥るのか。
そのあくどさを糾弾するに徹するのか。
自分になにができるかと一歩踏みだすのか。

どれが良いとか悪いではなく、
ただひたすらに
“あなたはどうしたいの?どう考えるの?”
を問われているのだと思えてなりません。

そしてその答えは、
現実にいる誰かでも、何かでもなく
“本質的な自分(=魂)”に触れることでもたらされ、それが生きる糧であり道しるべになっていくものと考えています。

私が
今こそ【ソマティック(身体性)】に
立ち返れば何か見えてくるのではないかと
感じる理由はそこにあります。

そして、
こちらの記事の続きとなりますが、
“本質的な自分(=魂)”を体現する
ということについて
もう少し深めていきたいと思います。

“本質的な自分(=魂)”の体現

ここまで、
【身体感覚】を取り入れてみることで、
人生が変化していくことについて
書いてきました。

まるで
【身体感覚】だけでうまくいく!
なんて誤解を生みかねない表現だったかも
しれません。

(ごめんなさい^^;
それは誤解です!)

あまた生存する哺乳類のなかで、
私たち人間だけに与えられた【思考】
というものを否定しかねない表現も
あったかもしれません。

けれど、
私が大事だと思っていることは、
【身体感覚】によって触れることのできた
“本質的な自分(=魂)”というものを
【思考】のちからでどれだけ体現できるか?
というところにあります。

“本質的な自分(=魂)”に
触れるだけで
いいのなら、
私たち人間に【思考】が
与えられた理由が見当たらないのです。

これまでは、
【思考】の弱み
(コンフォートゾーンに留まりたいがゆえ、
“被害者意識”をもちやすくなる傾向)
につけこまれるような形で、
いろんなものごとが動いていたように思います。

それは、
国家レベルでも、
社会レベルでも、
集団レベルでも、
個人レベルでも。

思考を英語で表現すると
“Mind(マインド)”ですが、
“マインドコントロール”
という言葉に象徴されるように
その弱みにつけこまれることが
多かったように思います。

こちらの記事でも書いていたように、
“マインドコントロール”といえば宗教、
というような風潮すらありますが、
残念ながらこの一般社会にこそ
「まともな顔」をしたマインドコントロールがそこかしこに潜んでいるように感じられてなりません。

でも、
それは決して悲観的なものでもなく、
人類史の重要なプロセスなんだろうなぁ
となんとなく思うものがあります。

【思考】というものを与えられた人間が、
それをどのように生かしていくのか?

過去を冷静に振り返ったとき、
それを未来にどう変換していくのか?

これは人任せにしてはいけない
とっても大切なテーマだと感じています。

だからこそこれからは、
【身体感覚】を解放してあげること
その【思考】の強みを発揮するときなのでは
ないかと私は勝手に考えているのです^^

(【思考】の弱みと強みについて、
探究を深めて図解にしました。
こちらの記事もぜひ^^) 

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さて、
思考(左脳的)と身体感覚(右脳的)のちがい
シリーズも今回で最後です。

最後までお読みいただき、
本当にありがとうございました。

このシリーズ①~⑤は概念的な
表現が多くふわっとした感じで
受けとって頂くような形になったかと思います。

もしよろしければ、
今抱えておられるテーマ
(仕事や趣味、パートナーシップ、
子育て、自己実現など)
に当てはめて読み返して頂くと、
納得感を深めて頂けるかと思います。

よろしければ是非やってみてください^^

次回からも、
【ソマティック(身体性)】な『探究』を
深めていけるような記事を書いていきたいと
思っています^^

引き続きお付き合い頂けたら
とても嬉しいです♡♡