新しい探究の場

なんと。。

ブログの更新にずいぶん間が空いてしまいました。

少し気になりながらも、
もともとのシングルタスクな性分が克服できないまま日々が過ぎていきます。

オンラインでの作業が増えたので、
PCやスマホをみる時間をできるだけ減らそうと試みています。

ふーっ。
久しぶりにこの場に言葉を綴ってみると、
なんだかとても気持ちが落ち着きます。

気がつけば、
こんなに大切な場所になっていたんですね~。

絶対に万人受けしないこのブログを
私はよくもまぁ続けているなぁと
我ながら微笑ましい気持ちです。

でも、
この画面の向こうで、
こんなにマニアックな記事たちを
誰かが読んでくれていると思うと
泣けてきてしまうほど嬉しいです。
(本当に。)

メッセージやリクエストくださる方、
いつも覗いてくださる方、
ほんとにありがとうございます。

今日の記事は、
過ぎ去っていく毎日の合間をぬってでも、
一度言葉に落とし込んでおきたいと思って書きました♡

それでは引き続き、
“隙あらば探究”な日々をどうぞ^^

————–

さて、
なかなかブログの更新ができなかった原因のひとつに環境の変化があります。

昨年から年明けにかけて、
組織づくり資本主義社会についてみえてくるまま感じるまま探究を続けてきました。

今、
それを現場で探究できるような場所にいます。

記事を書いていた当初は想像もしていなかったことで、
なんだか不思議な気持ちです。

でも、
「身体性」の探究を続けてみて、不思議でもなんでもないような気もしています。

身体の体感で“ゆだねる”ということをしてみると、あるべき場所へ導かれるという確信が日に日に深まっています。

本当に絶妙な場所です。

一人ひとりが自分のBeingを大切にし、
だからこそ仲間のそれも大事にしたいと思える。

たしかにビジョンはあるけれども、
それはビジョンというだけであって、自分たちが置かれている“今”をとにかく信じようとしている。

そんな場所だからこそ、
とても安心していることができます。

こうした
新しい組織づくりの模索をしていると、

ここで散々探究してきた自律のスタンスがとても大切なのだとあたらめて気づかされます。
(組織づくりにおいての自律のスタンスについてはこちら。)

リーダー一人でやっていても片手落ちで、
メンバー一人ひとりにそのスタンスが求められているようです。

こんまりさんのエピソードでもあったように、《個⇒全体》の流れの本質「一人ひとりが本質的な自分(魂)を体現すること」にありました。

組織のビジョンに呼応しているからと、
やみくもに自分をそこに投じてしまうと
遅かれ早かれやってくるのは“枯渇”ですよね。

資本主義社会に在る限り、
Doingが突然必要なくなることはないわけで、
そのバランスをどうとっていくのか?

毎日たくさんのことを感じて、味わって、
それをそのままメンバーに話してみて…
これまでの探究を実践するような日々です(笑)

「愛される」より「愛したい」

日々をそうした
“自律のスタンス”で過ごしていると、
みえてくるものがありました。

パートナーシップの記事でも引用した
“マズローの五段階欲求”をちょっと逆さまにしてみると分かりやすいかもしれません。

こんな感じで五段階欲求を
勝手にひっくり返してみますね。

“今の自分の真ん中”を模索するなかで
みえてくるものってなんでしょう?

身体を通して
内なる小宇宙という《自力》を信じ、

その果てにある
大宇宙という《他力》も信じ、

自分の真ん中にようと意識することで
この欲求の段階が“深まっていく”
という感覚が生まれてきました。

もちろん、
人生とは螺旋階段のようなもので
今感じていることは現時点の成長であり
ゴールなどでは到底ないのですが、
それでも
“自分なりに自分と真摯に向き合ってみる”
という試みは、ある程度この“深み”を感じさせてくれるものです。

上の方向にグンと成長する、
というよりも、
なんとなく味わいがいのある“深み”です。

グンと右肩上がりに成長する感覚ではないのはなぜかな?
と考えてみると、
“形”として見えにくい、
ということがあるのかもしれません。

その人の行動や言動をみていると
何も変わらないかもしれないけど、
その在りようや本人の体感は恐らく全然ちがいます。

深まるほどに純粋さが増していく、
無垢な感じが強まっていくようです。

「稼がなければ!
(認めてもらえない)」

「愛されなければ!
(存在価値がない)」

「成功しなければ!
(ダメな奴だと見下される)」

そんな強迫観念は“深み”を増すほどに消えていきます。

それでいて、
単に無欲になるのともちがう。

「稼ぎたい!」
ただそれだけ。

「愛したい!」
ただそれだけ。

「成功したい!」
ただそれだけ。

「これがしたい!」
ただそれだけ。

言っていること、やっていることは
たいして変わらないかもしれない。

でも、
その体感だけはまったくちがいます。

軽いのにきちんと地に足が着いている、
そんな感じです。

強迫観念からのそれは、
重いのになぜか上滑りな感じがする。

ふとしたときに、
心にぽっかりと穴があいている感覚があるのかもしれません。

“今の自分の真ん中”を模索するほどに、
“深み”が増していくという感覚を言葉で表現してみると
「愛したい!」という一言に尽きました。

そこからみえてきたこととは、
私たち人間は、
本当の本当は
「愛したい!」。
その欲求のほうが「愛されたい!」
よりもはるかに大きく根源的なのではないか?ということでした。

この世界を生きていると、
どうしてか私たちは「愛されたい」と望んでいるような錯覚に陥りやすいのですが、
本当は“「愛されたい」を望まされている”という表現のほうが的確なのではないかな?
ということを最近すごく感じます。

――――――――

本当の本当は「愛したい!」
がはるかに大きな欲求なのだとすれば、
私たちはどうして「愛されたい!」止まりで
生きてしまうのか?

これまでの探究で、
いかに私たちが
“愛されなければ”という衝動に翻弄され、
人生の大半の時間とエネルギーを注がされているか、ということがみえてきました。

“愛されなければ”とは、
愛情面のことだけではありません。

“成功しなければ”
“人から認められなければ”
“うまくこなさなければ”
“お金やモノを持っていなければ”…

あらゆるところに、
「愛されなければ価値がない」は潜んでいます。

その強迫観念を当然のこととして
受けいれて生きている私たちはいつしか、
“愛されるため”に自分のエネルギーを遣うことも当然のことだと思い込んでいます。

そのことについて、
ソマティック(身体性)な探究~本質編~
の記事から引用しますね。

私たちはこれまでの人生で、
身体に“傷”を抱え、
さらにその“傷”を抱えたまま
愛されるために頑張ることを
求められてきました。

本来であれば、
『順調に進んでいる流れの一端』に
過ぎなかったはずのトラブルが、
“傷”を抱えた身体で捉えてしまうことで、
『うまくいっていない』という認知となり、
それにフォーカスし続けることで本当の
トラブルのようになっていくんですね。

矛盾するようなのですが、
「頑張らなきゃ!」とか
「努力しなきゃ!」という力みが、
本来の本質的な私たち(魂)の順調な流れに
対する“抵抗”となってしまいます

では、
どうしてそうした“抵抗”が生まれるのか?
それは、
自分(小宇宙)そしてこの世界(大宇宙)、
つまり自分の人生に対する【信頼】がないからです。
【信頼】がない、というよりも
【信頼】できなくなってしまった、
という表現のほうがふさわしいかもしれません。

きっと本質的な私たち(魂)は、
そうした【信頼】をもって生まれてきました。

けれど、
誰もが経験する
お母さんやお父さん、周りの大人たちに
愛されなければ生き抜けない、
という幼少期のサバイバル体験に始まり、

大人になってからも、
「人からの承認や賞賛」
「学歴や肩書」
「異性からの求愛」
「お金や財産」・・・

“あらゆるものから
愛されなければ意味がない”
という価値観の刷り込みは続きます。

愛されなくなる恐れや不安は
無意識のうちに身体に刻みこまれます。

だから
誰かになにかに“愛されるため”に頑張ってしまうんですね。

「人からの承認や賞賛」
「学歴や肩書」
「異性からの求愛」
「お金や財産」・・・

本来であれば、
本質的な私たち(魂)を生きたときに
生まれる副産物であるはずのこれらの
ものを思考フル稼働で追いかけているうちに、
自分の人生に対する【信頼】をどんどん失っていってしまいます。

引用:ソマティック(身体性)な探究~本質編~

これは↑
このブログがまだ【資本主義社会】の探究に
辿りついていない頃の記事です。

“あらゆるものから
愛されなければ意味がない”
という価値観の刷り込みは続きます。

この頃から、
この刷り込みってなんなんだろう?
と少し疑問に思っていました。

そして、
【資本主義社会】の探究に至るわけですが
そこを経た今、とても腑に落ちた感覚があります。

【資本主義社会】を象徴するもののひとつに
「ビジネス」というものがあります。

「ビジネス」と一言でいっても
いろんな定義があるかもしれませんが、
概ねこの↓表現であらゆるものは内包できると思います。

「ビジネス」
人々に【快】を与える、もしくは
人々の【不快】を取り除くものに価値が生まれる。

起業ブームが落ち着いた今、独立することも普通になりました。

〇〇な状態の人が
□□によって、
◇◇な状態になれますよ!

という定石も見慣れたものになりました。

この定石に象徴されるように、
人々の《ニーズ》が存在して
初めてビジネスが成り立つ、とされています。

でも…
なんかこれまでの探究をつないでみたとき、
なんだか違和感を覚えるようになりました。

その《ニーズ》って本当に
人々から自然と生まれたものなのかな?

【資本主義社会】というフレームによって、
《ニーズ》が生まれているという見方ができなくもありません。

【資本主義社会】が与えてくる情報によって
私たちは恐らく“不足感”を植えつけられています。

本当に《便利》なほうがいいのかな?
本当に《早い》ほうがいいのかな?
本当に《楽》なほうがいいのかな?
本当に《高い》ほうがいいのかな?
本当に《溺愛》されたほうがいいのかな?

本当に《脱毛》はしたほうがいいのかな?
本当に《生きづらさ》ってよくないのかな?

さっきのひっくり返したマズローを
そんな視点から見直してみると
こんな様相がみえてきます。

モノやサービスを売るために、
“足りていないこと”
“もっと欲しがること”にフォーカスさせる必要があります。

一人でも多くの人間が、
“愛されなければ!”で生涯を終えないと、
【資本主義社会】が維持できないんですね。

ーーーーーーーーー

with コロナに少しずつ馴染んできた今、
今度は戦争が始まりました。

コロナの頃から感じていたことですが、
私自身これらの事象にまったく関心が持てませんでした。

それはなにか、
怒りとか悲しみという感情ともちがう
ちょっと辟易したような気持ちでした。

言葉にしてみると、
「う~ん、なんかもういい加減にして欲しいなぁ」といった感覚です。

自分でもこの感覚がどういったものなのか
よくわからなかったので、
しばらく感じつついろんなことに挑戦してみたり、探究したりしてみていました。

そのプロセスのなかでずっと大切にしていたことが“自律のスタンス”です。

その探究のなかで
マズローを逆さまにしてみよう、
という謎の発想が湧いてきたわけですが(笑)
【資本主義社会】と同じようなものが
コロナ禍や戦争にもみえてきました。

コロナ禍にしても、戦争にしても、
人々を「恐れ」寄りにしておくにはもってこいです。

【資本主義社会】のフレームとは一見関係がないようでも、恐らく構造は同じです。

【資本主義社会】は、
「愛」を特別なことに仕立てあげることにも成功しています。

本当は誰しもの足元に変わらず存在しているものを、あえて特別なものとすることで、
“頑張らなければ手に入らないモノ”
“お金をかけなければ得られないモノ”
だと思い込ませることができます。

「愛」っぽいものをビジネスに纏わせて、
そのビジネスを華麗に演出することだってできます。

「愛」っぽいものをよーく観てみると、
人肌が感じられません。

そして誤解がないように書き添えておきたいことは、ビジネスそのものが悪だと思っているわけではありません。

むしろ肯定的に思っているからこそ、引きで見たときの不自然さに違和感を感じるのだと思います。

モノやサービス、テクノロジーによって
人々がさらに豊かになっていることは事実だし、私もたくさんお世話になっています。

宣伝文句にあおられて、買ってしまわないように!
とかそういうことではなくて、
“そういう仕組みの中で自分たちは生きているんだ”ということを頭の片隅に置いて、自覚的でいるといいのかもしれないと思っています。

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

私には恐らく、
私たちが「愛したい!」という真の欲求に
辿りつこうとするのを邪魔して欲しくない
という想いがあります。

今は本当にさまざまな情報が飛び交うので、
戦争と一言で言っても陰謀論めいたものから
机上の空論的なものまでありますよね。

ごく一部の人間による金融支配や経済占拠のようなことは当然のこととして語られるようにもなりました。

そのことについてもいろんな意見があるようですが、私には支配者?たちの気持ちはまったくわからないし、むしろそこにはエネルギーを注ぎたくありません。

とにかく
「愛されなければ!」止まりで生涯を終えず、

「愛したい!」という気持ち一筋で生きる人が増えていくことを邪魔せんといて…と切に願っている自分がいます(笑)

ただそれだけのことで、
【資本主義社会】が諸悪の根源だ!とは1㎜も思っていません。

このフレームは本当に巧妙な作りなんだなぁ、と感慨深い思いになるくらいです。

これだけ想いを込めて
熱弁したのちにこんなことをいうのは
どうなんだという気もしますが…
なんか一周回って自分たちでここに
挑戦したくてやってるんじゃないかなぁ
と思ってしまうんですね。

以前にパートナーシップについて書いた
こんな記事があります。

私はとても不思議に思いました。

私たちの心や身体は、
“つながり”を求めるデザインに
なっているのに、
なぜあえて
【罪悪感】や【無価値感】という

“つながり”にくくさせるようなエッセンスが
根源的に与えられているのか?

それが、
《内側のパートナーシップ》
という視点で考えたとき、
答えが見えてきました。

まずは、
自分との“つながり”が必要なのだ、
気づかせるためのデザインなんだと思います。

【罪悪感】は、
「自分で自分を認めること」でしか、
【無価値感】は
「自分で自分を愛すること」でしか、
昇華していくことはできません。

やっぱり、
私たちはどこまでいっても
“つながり”を求めています。

自分との“つながり”のその先に、
人との“つながり”があるということを
私たちは体験しているのだと感じます。

パートナーとの関係が、
“恋”から“愛”
に変わっていく

プロセスの水面下では、
自分との“つながり”が築かれている、
と言えるのかもしれません。

これって、
“つながり”の温かさを
100%味わうためのデザインとも
思えますよね^^

引用:ジェンダーの質とパートナーシップ

これはあくまで、
男性と女性のパートナーシップについて
書いた記事ですが、この世界で起こっていることも恐らく根本的なことは同じです。

私たち一人ひとりが、
思い込みのままに
「愛されること」ばかり求めず、
まずは自分を「愛すること」ができるかどうか?

まるで子育てをするように、
猫かわいがりするだけでなく
信頼をもって「やりたい!」を尊重してあげられるかどうか?
どんな状態でも受け入れてあげられるかどうか?

大切なことはそこなのかもしれません。

そんな愛を自分に向けられるのなら、
心から人を愛するという態度はきっと自然に生まれてくる。

誰かからでもなく、
なにかからでもなく、
自分に“愛されている”という安心感は
それほどにパワフルなものです

——–

決して
【資本主義社会】が悪というわけではなく、
むしろこれまでいろいろやってきた中でも、
“まだマシなほう”くらいの評価に甘んじて
【資本主義社会】を続けているわけです。

だからもうちょっと進化させて
【ポスト資本主義社会】にしていかない?
という動きも起こってきているんですね。

これまでの探究からもみえてくるように、
私たちはたえず進化し続けようとしています。

特に今は大切なプロセスの最中にあるように思えてなりません。

世界中で起こる不条理に見えることも含めて、すべて私たち自身の挑戦なんだというのが私個人の結論です。

私にとっての「愛したい!」とは?


こうした社会情勢から、

どうしてこの探究のプロセスが
生まれたのか?というと、
意図的に《ニーズ》を生みだす
ということをカウンセラーという
仕事をしていくにあたって私自身がしていたという気づきがあったからです。

“宗教肯定派カウンセラー”として
活動をしていくなかで、
その違和感を無視できなくなったときの
葛藤を記事にしていました

当時もその違和感の正体はだいたいわかっていたつもりでした。

でも今回あらためて「ビジネス」というものを探究してみたとき、もう図星でした。。

たしかに私が掲げた看板に希望をみいだして
出会ってくださったクライアントさんもいます。

よき結果となり、喜んでもくださいました。

でも、
これでいいのかな?という違和感はやっぱりありました。

私はかつて、
カウンセリングや〇〇療法、
〇〇メソッドによって救われたわけではありませんでした。

宗教的な価値観が隣り合うからこそ、
そうした心理学などの知識や智慧を取りいれること、
サービスを受けることには罪悪感がありました。

手元にバイブルがあるのに、
外側に答えを見いだしたら私はこの世界から
爪弾きにされてしまうのではないか?という恐れがありました。
(なんておおげさな!なんて思えてしまいますが、当時は本当にそう思っていました^^;)

だからこそ、
漢方医の先生に偶然言われた
「僕があなたの身体の細胞だったら
嫌になる。
すぐに我慢するし、
褒められても受け取らないし、
もうこの人のために頑張っても
甲斐がないから働くのやめようと思うよ。」
という言葉が一縷の望みとなりました。

これは、
もらった言葉そのままの表現です。

まるで
細胞ひとつひとつに意志があり、
一人の人間のように
機嫌も損ねてしまうんだよ、
と言わんばかりのこの表現は、
私にとって衝撃で、
この言葉にそのまま応えるような形で
自分と向き合うことをはじめました。

まさか先生も、
私が言葉をそのまま真に受けて、
身体の細胞ひとつひとつを
意識して過ごしていくなんて
予想だにしていなかったでしょうが、
気づけばそうして過ごすことが
【自己信頼力】
(自分とのパ―トナーシップ)
を高めることにつながっていました。

この体験のプロセスは
私にとって何にも代えがたい宝物です。

当時の私の目の前に、
今の私がカウンセラーとして登場して、
“あなた今こんな状態でしょ?
このサービスを受けたらこんな状態に変わることができるよ!”
といって近道を教えてくれたとしたら、
すごく余計なお世話だったと思います。

そしてこれも誤解のないように
書き添えておきたいことは、
ビジネスの方法としてそれがよくなった、
という意味合いではありません。

その“違和感”はきっと、
『人生の流れ』のようなものから送られたサインだったのだと思います。

「これまでのプロセスで本当に大切だったことを思いだして!」
と言われていたような気がします。

裏を返せば、ちゃんとカウンセリングで救われたという原経験やそこに辿りつくべきプロセスを経た人の席に座るなと。笑

“愛されなければ”(うまくいかなければ)に翻弄されて、人に倣った方法を選んで進んでしまうところでした。

それがどれだけ奇妙に思えても
自分が宝物だと思えるこれまでのプロセスを、
その流れのままに進んでいきたいと思います。

——–

私にとって
「愛したい!」とは、
“ただ好奇心のままにこの先をみてみたい”
それを自分に許すことなのかもしれません。

もはや生き方そのものが探究の対象なので、
割りきらなければいけないことだってあります。

もう守破離なんていってられない。

その先にはなんの保証も安定もないかもしれない。
あらゆるものから“愛されなくなる”かもしれない。

それでも、
これからさき人々のニーズはもっと深みを増して
「愛されたい!」から「愛したい!」に移行してくることは間違いありません。

そんな時代を迎えるにあたって、
私は《ソマティック(身体性)》=感じる身体というエッセンスをせっせと種まきしていきたいと思いました。

方法論とかメソッドではなく、
心理でも真理でもなく、

「自分でちょっとやってみよう」と思えるような。

その在りようがいつしか
“真摯に自分(人生)と向き合う”になっていくような。

———-

「愛されなければ!」という思い込みとの
対比のために「愛したい!」という言葉を使っていますが、
つまりは「生きたい!」というパワーです。

真摯に人生と向き合ったとき、
みえてくる世界を大切にしていきたいです。

一人でも多くの人が、
「生きたい!」という真の欲求を満たすために、
自身のエネルギーを注げるようまずは私自身が「生きたい!」を体現していければ、、、
あらためて感じる今日この頃です。

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●【概念編】
思考(左脳)と身体感覚(右脳)のちがい①~⑤・<最終章>
※<最終章>までの連続シリーズです。

●【本質編】
ソマティック(身体性)な探究~本質編~

●このブログでは、
【パーツ心理学】にもとづいて、
身体の細胞や感情に対して
“擬人的”な表現を多く用いています。
自分と向き合ったり、
感情と距離をおくことを優しく
手伝ってくれる神経生物学的な考え方です^^