流行り言葉は“サムネイル批判”にさらされる

少し前の記事で、
私自身のことを例に
“自分らしさ”
について書きました。

今日はもう少し、
現実的な視点で
その大切さを深掘りして
みようと思います。

一人ひとりが
自分らしく生きる、
ということについて、
まるで綺麗ごとのような、
平和ボケした印象を持たれる方も
いるかもしれません。

それくらい、
“自分らしく”という言葉は
さまざまな場所でつかわれ、
その表現も抽象的なものが多く、
よく分からないままに飽きてしまっている、
ということもあるかもしれませんね。

いわゆる
流行り言葉のひとつです。

流行り言葉になってしまうと、
しだいにその言葉が耳にはいらなく
なってしまう、
本質が見失われてしまう、
という傾向があります。

たとえば今は
【HSP(Highly Sensitive Person)】
という繊細性についての言葉が
広まっています。

その繊細さゆえに
生きづらさを抱えていた多くの人が
この言葉に救われました。

ところが
言葉の広がりとともに、
【HSP】という言葉が
なにかの免罪符になるような傾向が高まり、
【HSP】という言葉に辟易する人も増えました。

本当に苦しんでいる人が、
この風潮によって傷ついている、
という側面も見逃せません。

それくらい
流行り言葉って
むずかしいのだと思います。

流行り言葉が
一人歩きしてしまう原因のひとつが
情報発信に欠かせない
<サムネイル>の存在です。

<サムネイル>とは
Youtubeなどで、
動画を選ぶときの判断材料になる
あの画像のことですね。

<サムネイル>だけでなく、
広告や看板、本の帯にも
同じことがいえます。

今の時代、
次から次へと情報がとんできて、
その一瞬で視聴者を惹きつけられるように
<サムネイル>には、簡単で刺激的な言葉やイメージが多く使われます。

つまり、
<サムネイル>は
短絡的にならざるを得ないんですね。

“流行り言葉”への批判の多くが
この<サムネイル>の看板だけみて、
それを全体や本質だと決めつけた
批判であると感じられます。

その情報の多くが、
きちんと聞いていれば
奥行きも本質も同じようなことを
発信しているのに、
同じような発信をしている人や媒体が
お互いに“サムネイル批判”をし、
それに振り回される視聴者や読者が
なんだかよく分からなくなって、
理解してみようという気持ちが
失せてしまうことがあります。

“自分らしく生きる”という言葉も、
その傾向が強いように思います。

しつこいようですが、
“自分らしく生きる”って
本当に重要なことです。

一人ひとりの人生という
“部分的”なことだけでなく
この社会全体・世界全体という
“全体的”なことに大きく影響してくることだからです。

本当にしつこいですね^^;

情報を発信する人すべてに
言えることかもしれませんが、
発信しながら私自身に伝えているからこそ
ついついしつこくなってしまいます(笑)

虐待やいじめ問題の根っこの原因とは

虐待やいじめという問題は、
私たち人間が抱える大きな問題のひとつ
ですよね。

それこそ、
宗教的な視点をもてば因縁因果、
という側面もあるのかもしれません。

けれど、
もう少し別の視点から見てみた時に
虐待やいじめという問題で
加害者になってしまった人に共通している
心理的な行動には、
《自己を否定している》
《自己を批判している》
というものがあります。

つまり
“自分らしく生きられない”
という苦しみと怒りがあるんですね。

生まれた家庭や
育った環境のなかで、
“自分らしく生きること”を
抑圧した瞬間があり、
そのきっかけはさまざまです。

経済的貧困によることだけでなく、
たとえ裕福でも親の自尊心を満たすために、
良い子を演じつづけることだって
“自分らしく生きること”を諦める原因になります。

どんな問題も、
加害者はかつての被害者です。

そして、
“自分らしく生きられない”
という怒りのその下にあるのは
【無価値感】の存在です。

自己の存在に価値を見いだせない、
という心理状態のことで、
実は多かれ少なかれ、
誰のなかにももっているものです。

日常生活のなかでの
人間関係のトラブルは
この【無価値感】が刺激されて
起こっているものが大半で、
いじめや虐待といった大きな問題は
その【無価値感】の存在がそれだけ
大きかったのだ、ということがいえます。

そして、
その【無価値感】の正体は、
“自分に正直に、素直になれていない”
(=本質的な自分を体現できていない)

という自己に対する罪悪感なんですね。

自分を非力化させて、
自分の欲求を抑えつけていることは、
それが生き抜くための手段だったとしても、
どこかで
“(自分に対して)申し訳ない”という
思いを抱え続けることになります。

もし、
虐待をしてしまったお母さんや
いじめっ子たちのなかに
“自分らしく生きていいんだ”
という自分を受け容れる気持ちがあれば、
心に少しでもスペースがあれば、そうした行動には至らなかったかもしれない。

自己を否定する、
自己を批判する、
“自分らしく生きられない”
という苦しみの空気感は、
育った家庭や周りの環境の影響が
最も大きなものですが、
この社会全体に蔓延しているものこそ、
ささいなようで大きな影響力をもっています。

虐待やいじめの問題について、
そこを強く問題視して
感情を荒立てるよりするべきことは、
この社会全体の空気感を変えていくことです。

心理学の大家カール・ユングが提唱した
【集合的無意識】
分かりやすく表現すると、
“生きとし生けるすべてのものが
共有している空気感のこと”
といえます。

すべての人が、
無意識を通じてその空気感と
つながっています

一人ひとりの“在り方”と
全体の空気感はお互いに
影響をあたえあっています。

つまり一人ひとりがどれだけ
“自分らしく生きること”
を自分に許し、決めているかで、
そういった問題を小さくしていくことが
できるんです。

私が、宗教的な生きづらさを
抱えている方へのサポートを
している理由のひとつもここにあります。

本来なら、
“自分らしく生きること”
をスムーズにしてくれるはずの宗教なのに
集団社会性が混ざり合ってしまうことで、
それは戒律という形であったり、
同調圧力という形であったり、
“自分らしく生きること”への抵抗の強い
空気感にさらされてしまいやすいからです。

その空気感のなかで
“自分らしく生きること”
を大切にしている人が増えていけば、
全体の空気感だって変えていけるし、
その宗教の教えがまっすぐに
信者さんたちに届くようになると
思っています。

特に今、
ウィルスの影響もあって
絶望や虚無感は広がる一方です。

失業や倒産、
そこから派生するさまざまな問題。
人からは余裕がなくなり、
余裕のなさは人格すら変えてしまう。

“自分らしく生きる”
なんてバカバカしくて
やってられない気持ちにも
なるかもしれません。

でもそこで、
一人でも多くの人が
あえてそこに挑戦してみようと
することに価値があると
心から思います。

今、取り急ぎは
問題の渦中にいない、
というのであれば
不安な気持ちが大きくなって
しまうようなニュースや噂に
流されないこと。

それは現実逃避でもなんでもなく、
大切な“選択”です。

私たちをとりまく
この情勢は、
たしかに自分たちの非力さを
突きつけてくるものですが・・

私たちは
そこで耐え忍ばなければいけない
幼い子どもではなく、
ちゃんと選択権のある大人です。

この状況を憂うのであれば、
やっぱり自分にできることを
ひとつでも多くできたほうが
いいですよね。

私も絶賛挑戦中です^^

ときには、
あ~流されて生きるほうが
楽かもしれないなぁなんて
思うこともあります(笑)

絶望や悲壮感に
浸ってしまったほうが
言い訳だってできるし、
責任だってとらなくていい。

自分に素直になったり、
正直になろうとしたら
どうしたって責任は
生まれますよね^^;

こんなダメな自分を認めるなんて
嫌だなぁ~。。
って投げ出したくなることだって
ありますよね。

責め続けるほうがよっぽど
楽なのに、、と。

こんなふうに、
責任を負うことから
逃げたくなったり、
自分を責め続けるほうが楽だと
感じてしまう原因も
無価値感からくる
【自己蔑視】や【自己否定】
だったりします。

でも、
そことちゃんと向き合ってみると、
無価値感が昇華され、
【自己信頼力】がさらに強まっていきます。

そのプロセスで味わえる経験には、
悲しみも含めて、
流されるだけでは味わえない喜びが
たくさんつまっています。

意図せずとも、
自己実現の土台が
築かれていくんですね^^

人の言動や行動、
周りのことなんて
良い意味で気にしている場合では
なくなってきます。

そしてどうしてか、
周りの人たちに喜んでもらえたり、
ありがとうと言われることがふえたり
不思議なことも起こってくるんです。

大切な第一歩をプレゼント♪

誰もが、
“自分らしく生きる”という、
自然な在り方をめざすことが
この世界を整えることにつながるなんて、
なんだか非現実的なことに思えますよね。

でも
本来の私たちは、
それが真実である、
ということをどこかで知っているのではないかと思います。

「そんなきれいごと…」
と思ってしまう私たちこそ、
現実のまやかしにまんまと
ひっかかっているのかもしれません。

なんだか、
《自分らしく生きる》の
一歩を踏みだしてみたほうが
いろいろ見えてくる気がしませんか^^

そして、
その一歩を踏みだすとき、
ちょっとお邪魔虫をしてくるのが
【自己蔑視】だったり、
【自己否定】をしてしまう
パーツさんたちの存在です。

“パーツ”とは、
私たちのなかに存在する
“いろんな自己”のことです。

そんなパーツさんたちの存在について、
そして
お邪魔虫パーツさんたちにフォーカスして、
味方になってもらうための具体的な方法を
Mind(思考)からのアプローチ、
Body(身体)からのアプローチにまとめて
ご紹介した資料を作りました!

全部で20ページ以上。

すぐに取り組んでいただける方法を
メインに盛り込んでいますが、
ボリューム満点です^^

読んでくださった方からは、
“読んだだけで少しゆるめた”
“自分と向き合うって面白い!と思えた”
“半年間できることをちょっとずつ
やってみただけなのに気づけば
チャレンジャー体質になってました”
などのお声をいただいています。

きっと、
なんだかよくわからない
“自分らしく生きる”の
一歩をすーっと踏みだして
いただけると思います^^

そして、
“自分らしく生きる”
ということの正体が、
do(どうするか)ではなく、
be(どう在るか)である
ということを少しでも
体感して頂けると嬉しいです^^

★【プレゼント】のページより、
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お申込みくださいね★★

 

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Q.「ソマティック(身体性)とは?」

●【概念編】
思考(左脳)と身体感覚(右脳)のちがい①~⑤・<最終章>
※<最終章>までの連続シリーズです。

●【本質編】
ソマティック(身体性)な探究~本質編~

●このブログでは、
【パーツ心理学】にもとづいて、
身体の細胞や感情に対して
“擬人的”な表現を多く用いています。
自分と向き合ったり、
感情と距離をおくことを優しく
手伝ってくれる神経生物学的な考え方です^^